2009年1月21日 (水)

週刊現代 ナナ氏=豊崎由美

正直書評。 Book 正直書評。

著者:豊崎 由美
販売元:学習研究社
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そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド Book そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド

著者:豊崎 由美
販売元:アスペクト
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勝てる読書 (14歳の世渡り術) Book 勝てる読書 (14歳の世渡り術)

著者:豊崎 由美
販売元:河出書房新社
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百年の誤読 (ちくま文庫) Book 百年の誤読 (ちくま文庫)

著者:岡野 宏文,豊崎 由美
販売元:筑摩書房
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週刊現代の書評欄に月に一回ナナ氏という匿名書評が載っている
ナナ氏はどうやら豊崎由美のようだ。
もちろん豊崎のほかにもう一人いるかもしれないが。

もともと豊崎が書いているのではと疑われていた
それはナナ氏の書いている内容が、大森望、豊崎の対談で出てくる話ばかりだったことによる
また、貴志祐介「新世界より」を評した豊崎のブログの内容とナナ氏の書評の内容がほぼ同じであった
というのは非常に怪しい

http://d.hatena.ne.jp/bookreviewking/20080215/1203060476
内容が同じで男言葉にしてるだけである

共通点
1貴志のことをそれほどとは思っていなかった
2しかし「新世界より」は傑作
3直木賞候補について触れる
4大きな世界に世界観があると主張している

現代のナナの書評と、豊崎のブログの内容がおなじであった


大森望もナナ氏を豊崎だと疑っていた

大森mixiより

「ナナ氏の書評 2009年01月12日05:23
週刊現代の月イチ匿名書評、最新の1/24号は直木賞予想。
トヨザキ社長はぜったい書いてないとついこないだも強く主張してましたが、これはどう見ても
豊崎由美でしょう。◎が『利休にたずよねよ』、○が『カラスの親指』だし。
だいいち、『きのうの世界』を「恩田SFの集大成」なんていう人はほかにいません。
これが別人だったら盗聴器かスパイの存在を疑うしか(笑)。」

つまり、「恩田SFの集大成」という言葉をまだ公開されてない直木賞予想対談で豊崎が
使ってるんだろうと想像できる。

そりゃおかしいと思うわな

実際公開された対談はこうだった

http://web.parco-city.com/literaryawards/140/r4_02.html

>豊崎 まったくです、恩田さんへの嫌がらせかと思いました。かわいそうすぎます。で
も、この小説自体は恩田SFの集大成ともいうべき傑作ですよ。


大森との対談で「恩田SFの集大成」と評して、匿名書評でも「恩田SFの集大成」と
同じ表現を使ってしまう間抜けさ

ナナ氏が豊崎だと証明された

他に一人いそうだが

2009年1月 9日 (金)

福田和也っていう馬鹿が若島正を読んで勉強してる

福田和也の無知については以前指摘した
この人のでたらめさはいつものことだが、文学についての発言を見ていると明らかに若島正を読んでいることがわかる。

若島がグレアム・グリーンを絶賛していると、最近はグリーンが大好きだといって
「新潮45」「SPA」「週刊新潮」で語りだすし、
若島がジェイムス・ジョイスの作品について「いろいろな読み方があるが、これを面白く
読もうとすると、要するに物語外の要素を持ち込む必要がある」という文章を書いていると
早稲田文学シンポジウムで「物語の外から持ち込むという点で弱いんですね」なんて
そのまんまぱくるし、
「SPA」でトルストイと話題が出ると、若島が「立体的な大パノラマ」と評してるのをぱくって
「要するにパノラマですよね」って言い出すし

ほかにも若島がナボコフについてコンピューターで語彙の頻度を調べる研究を
してるのを読んで、「週刊現代」の「平成フラッシュバック」でコンピューターでの
語彙の頻度を調べる研究などがあるなどと書くし
「SPA」のノーベル賞の話題で、若島がフィリップ・ロスの作品について、避妊具の
何かを最初に書いた文学だと書いてるのを読んで、ちょっとひねって「世界初の
バイアグラ文学という面もあるよね」というし
若島がトルストイの偉大さについて、その複眼性をいい、視点の移動の自在さを
褒めると、「新潮」連載の「わが戦前」で江国香織を評するのに「その視点移動の
自在さが意識されないほどに見事」とか言い出す。

つまりこういう人間だということだ。

ディフェンス Book ディフェンス

著者:ウラジーミル・ナボコフ
販売元:河出書房新社
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乱視読者の英米短篇講義 Book 乱視読者の英米短篇講義

著者:若島 正
販売元:研究社
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ロリータ、ロリータ、ロリータ Book ロリータ、ロリータ、ロリータ

著者:若島 正
販売元:作品社
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乱視読者の新冒険 Book 乱視読者の新冒険

著者:若島 正
販売元:研究社
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社説 ことしの世相 手を携えて凍えを解こう

職に就けない大卒男性の奔走を描いた小津安二郎監督の無声映画「大学は出たけれど」が公開されたのは一九二九年、世界恐慌の年だった。

 いま、「大学を出る前に」就職の内定が取り消されている。

 工場は閉鎖され、働く場は奪われ、平穏な暮らしへの願いは、引きちぎられる。私たちは、歴史的な猛吹雪のただ中にある。

 この一年で、株価や為替、原油価格などを示す折れ線グラフは、遊園地のジェットコースターの軌道をなぞるように急角度を描いた。その変動ぶりに目がくらみ、立ちすくむ。

 深い失墜感の中、年が暮れようとしている。

*決壊を食い止めねば

 夏の「アキバ」の交差点。現代の日本を象徴する東京・秋葉原で、惨劇は起きた。暴走するトラックとダガーナイフで七人の命が奪われた。

 元派遣社員の容疑者の「ネットで無視された」「誰でもよかった」との供述は他者の理解を拒絶する。

 元厚生事務次官宅への連続襲撃事件も、動機は「保健所に殺された愛犬の敵討ち」だった。

 深い孤独と周囲への強い敵意がざらりとした存在感を残す。

 不条理な殺傷事件の連鎖を予見した小説「決壊」の中で、作者の平野啓一郎氏は主人公にこう語らせる。

 「結局、遺伝と環境の不公平はどうにもならない。最初から与えられている人間のようにはなれない」

 首都圏などで、米国を模して周囲に塀を巡らし、入り口に「城門」を設けたゲーテッド型と呼ばれるマンションが売れている。安全、安心を買える層と、その他の層との間に、越えがたい壁が築かれつつある。

 七十五歳以上のお年寄りは、後期高齢者として切り離された。

 年金記録の組織的改ざんは社会保障への信頼を根底から揺るがした。

 億単位の生活保護費を詐取した滝川の夫婦に実刑が言い渡された。悪意に毅然(きぜん)とした態度をとれなかった市役所は、国への返済という重いツケを払わされる。

 振り込め詐欺集団が暗躍し、息子や娘と離れて暮らす老夫婦の孤独につけ込む。耳が聞こえないふりをして、身体障害者手帳を不正に取得する。寒々とした土壌を憂う。

 大学生や高校生にまで、大麻汚染が広がった。大分県教委では、校長や幹部職員の間で汚職が慣習化していたことも発覚した。

 社会のきしむ音が聞こえる。決壊を食い止めなくてはならない。

*立て直しの知恵紡ぐ

 中国製冷凍ギョーザによる中毒事件や産地偽装-。食の安全も脅かされ続けた。カビや農薬で汚染された事故米が野放図に流通し、国の無責任体制をあぶり出した。

 危機のときこそ国民を救う責務がある政治は、無為に時を過ごした感がある。二年連続の首相の政権投げ出しという異常さも、既視感の中に消化されていく。

 ぐらつく政治のすきを突くように、航空自衛隊の制服組トップが日本の侵略戦争を正当化する論文を公表し、文民統制が問われた。

 スタンピード現象という言葉がある。家畜集団が狼狽(ろうばい)して同じ方向にどっと疾走するさまをさす。株価の暴落も投機資金が市場から一気に逃走して起きた。

 だが、庶民は日々を生きることから逃げ出すわけにはいかない。

 敗戦を上海で迎えた作家武田泰淳は、滅亡はより大きな知恵の出現につながるといった。

 苦境を嘆いてばかりはいられない。サブプライムローンという浅知恵は破たんした。暮らしを立て直すための知恵を紡ぎ出そう。

 洞爺湖に集った世界の首脳が確認した地球を守る誓いを本当に実現できるか。難しい宿題も残っている。

 アイヌ民族は先住民族だと国会が決議した。権利回復を確かなものにするのはこれからだ。

*「共感」を手がかりに

 一度に四人の日本人科学者がノーベル賞を受賞した。北京五輪では、柔道の上野雅恵選手の連覇を含め、道内勢が四つもメダルを獲得した。

 輝く笑顔にずいぶん励まされた。

 日本ハムのパ・リーグ王者返り咲きとコンサドーレ札幌のJ1復帰は、来年の楽しみにしたい。

 この冬、登別に一軒の「地域食堂」が店開きした。町内会有志が運営し、主婦が手作りした料理を五百円以下で出す。温かな食事を仲立ちにお年寄りと子供の会話が弾む。

 理事長の対馬敬子さん(60)は「もうけはないの。でも、私たちも元気をもらえますよ」と笑う。同じような地域食堂は道内で十軒を数える。

 経済学者の堂目卓生(どうめたくお)氏は、「国富論」で自由競争の効用を唱えたアダム・スミスのもう一つの名著「道徳感情論」に着目する。

 その中で、スミスは他者の幸せを自分にとっても必要なものと感じる「共感」こそが、社会に幸福をもたらすと説いた。時を超え、いまに生きる思想だろう。

 穏やかに、根気よく、凍えた世界をほぐす風を吹かせたい。 北海道新聞

決壊 上巻 Book 決壊 上巻

著者:平野 啓一郎
販売元:新潮社
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決壊 下巻 Book 決壊 下巻

著者:平野 啓一郎
販売元:新潮社
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本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書) Book 本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書)

著者:平野 啓一郎
販売元:PHP研究所
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ウェブ人間論 (新潮新書) Book ウェブ人間論 (新潮新書)

著者:梅田 望夫,平野 啓一郎
販売元:新潮社
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ディアローグ Book ディアローグ

著者:平野 啓一郎
販売元:講談社
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2008年12月28日 (日)

張競・評 『日時計の影』=中井久夫・著

臨床瑣談 Book 臨床瑣談

著者:中井 久夫
販売元:みすず書房
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日時計の影 Book 日時計の影

著者:中井 久夫
販売元:みすず書房
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治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫) Book 治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)

著者:中井 久夫
販売元:岩波書店
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Book 精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

著者:中井 久夫
販売元:日本評論社
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◇文章の奥底に流れる細やかな「情」の水脈
 中井久夫の本を読むと、いつも不思議に引き込まれてしまう。ほんらい専門がまったく違うし、精神医学は自分の個人生活からもほど遠い。だが、その本に接すると、思いもかけないことを教えられ、はっとさせられることがしばしばある。

 この最新のエッセー集は多彩な内容からなる。精神医学に関する文章あり、人物の回想と過去の追憶あり、日々の随想や文学論あり、さらには訳詩も収録されている。扱う内容は一見ばらばらのようだが、意外にも互いに照応していて、巧(うま)く調和が取れている。精神科医としての仕事や文筆活動の幅広さを示すと同時に、若い頃(ころ)からの思索の道程を振り返る構成にもなっている。ただ、それは時系列ではなく、過去と現在を自由に往還するなかで、その医療思想がどのように醸成されたかが示されている。

 精神医学のことについて語りながら、文章のいたるところに哲学的思考がきらめいている。統合失調症、心的外傷後ストレス障害から認知症にいたるまで、精神的な不調や疾患を孤立した事象として見るのではない。人間の精神と身体を一つの統一体としてとらえ、他者との関係性において観察する。健常と異常をはっきりした一線で区分するのではなく、両者のあいだの連続性もつねに視野に入れている。

 その仕事ぶりを見ると、何となく東洋の学問が想起される。江戸時代の日本でも、清代以前の中国でも医者は同時に儒者でもある。中井久夫も医者であると同時に、翻訳家であり文筆家でもある。狭い専門知識にとらわれず、より広い目、優しい目で人間を見る姿勢は人文学の厚い素養と寛容な精神に裏打ちされたものであろう。

 中国には「病いを治すには先(ま)ず心を治すべし」(治病先治心)ということわざがある。心の治療とは患者の信頼を得ることであり、自信と希望を持たせることである。「患者の自尊心」や「自然の治癒力」を重視する中井久夫の学説はまさにそれを理論化したものといえる。精神科にかぎらず、医療全般にとって必要な知見だと思う。

 おそらく情の厚い方であろう。認知症についての、「『知』はおおまかになっても『情』と『意』は残る。『情』がいちばん最後まで残る」というくだりを読んで感動すら覚えた。近代医学では誰も注意を払わなかったが、中井久夫の医療思想の特徴として「情」に対する注目が挙げられる。

 「建物は正面だけでよいか」という文章のなかで、教育における「情」の大切さを指摘した。国数理社英の五教科が建物の正面とすれば、家庭科と図工など「情」を表現する「実技教育」は建物の側面である、正面ばかりの家は立っておれまい、と喝破したところはいかにも中井久夫らしい。

 そういえば、知人や友人の回想録が情感に富んでいるのは、「情」を大切にする心のあらわれなのであろう。その文明批評が肯綮(こうけい)にあたり、非常に説得力があるのも、文章の奥底に細やかな「情」の水脈が静かに流れているからである。

 文学好きの一人として、ギリシャの詩人オディッセアス・エリティスの訳詩に出会えたのはうれしい。エーゲ海の日射しを思わせるような激情が典雅な日本語で巧みに再現されている。「ヴァレリーと私」は甲南高校の時代にさかのぼって、このフランス詩人との出会いを語って面白い。ポール・ヴァレリーの訳詩とともに著者の精神世界の一端を知る手がかりになっている。

五百旗頭真・評 『米欧同盟の協調と対立…』=渡邊啓貴・著

日米関係史 (有斐閣ブックス) Book 日米関係史 (有斐閣ブックス)

著者:五百旗頭 真
販売元:有斐閣
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米欧同盟の協調と対立 --二十一世紀国際社会の構造 Book 米欧同盟の協調と対立 --二十一世紀国際社会の構造

著者:渡邊 啓貴
販売元:有斐閣
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ポスト帝国―二つの普遍主義の衝突 Book ポスト帝国―二つの普遍主義の衝突

著者:渡邊 啓貴
販売元:駿河台出版社
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◇五百旗頭(いおきべ)真・評
 ◇『米欧同盟の協調と対立--二十一世紀国際社会の構造』
 (有斐閣・2625円)

 ◇深く結び、深く対立する歴史と現在
 小泉内閣が二〇〇一年四月に生れた翌月であったと記憶するが、東京で日独ワークショップがあった。もちろん九・一一テロが起る前である。外交政策を雄弁に語るドイツ人学者が、ブッシュ新政権への憂慮を口にした。彼はワシントンを訪問し、新政権の要路やとり巻き達と話す中で、異星人と対するような思いにとらわれたという。ヨーロッパから見れば、21世紀を迎えた世界の中心問題は、地球環境や感染症など国境をまたいで共同で対処すべき「挑戦」である。だのに、ワシントンの新政権は、「敵」だの「脅威」だの古いパワーポリティックス(力の政治)の概念に支配され、風車を敵と見誤って突撃するドン・キホーテを演じるのではないかとの危惧(きぐ)を禁じ得なかったというのである。

 当時はまだネオコン(新保守主義者)の存在は注目されていなかったが、チェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官など筋金入りのタカ派が要職を占めていた。とはいえ、パウエル国務長官は軍事的愚行を許す人ではないし、「思いやりある保守主義」を掲げるブッシュ大統領ではないか。めったなことはあるまい。むしろヨーロッパにも問題があるのではないか。冷戦が終結し、ソ連が消失した後、欧州は軍事的脅威から解放された。その結果、環境など世界共通の問題が圧倒的な関心事となった。欧州はそれでよいが、世界にはまだ伝統的脅威も厳存する。日本の周辺にも力をもてあそぶ北朝鮮があり、中国の台頭がある。日本単身でそれらに対処できるものではない。北東アジアの危機に欧州は関与しないが、幸いにもアメリカは強い関心を持つ。アメリカまで欧州と同じく、伝統的脅威から卒業されては困る。アメリカには伝統的脅威と地球的挑戦の双方について、しっかりリーダーを務めていただかねばならぬ。そう私は感じていた。

 本書は、米欧間の歴史的な協調と対立の関係を論ずる。もともとアメリカはヨーロッパの生んだ子であった。子供はぐんぐん成長し、親に対して独立を宣言した。図体は大きくなったが、まだまだ知恵の足りぬ未熟者でね、と上から見下すような言辞を好む欧州であった。しかし20世紀の二度の大戦では米国の来援を仰がねばならず、第二次大戦後は超大国ソ連の脅威の下でアメリカのみが生存のよるべであった。米国の抑止力(ソ連の中枢を撃破する能力)による安全保障体制NATOを受容した西欧であった。

 米国優位の同盟を西欧は生存のために必要とした。キリスト教を起源とする西洋的価値を欧米は共有し、世界秩序への責任感すら共有する。欧米の協調は日本人が思っているよりも、はるかに根深い。それでいてヨーロッパは、米国の一方的支配を許すことができず、米国の優位に対してすら穏やかであり得ない。西洋文明の老舗としての誇りと英知から見れば、アメリカの賢慮を伴わない行動力に対して一言説教せずにはおれない。フランスを中心に欧州が誇りと自立性を失わない限り、米欧の対立もまた日本人が思っているよりも根深いのである。

 著者はフランス政治の専門家である。日本にあってアメリカへの関心は強いが、ヨーロッパは遠い。しかしアメリカがグローバルな決断をする時に議論するのは、日本よりもヨーロッパである。イラク戦争の開戦をめぐる国連での米仏の激しいやりとりは、その最たるものである。著者はその時期ワシントンに滞在し、米欧激論を最前線で観(み)ることになった。米欧は何に結び、何に対立するのか。深く結び、深く対立する米欧に対して、日米は何なのか。日本の安全にとって米国が重要であることは当然としても、対米協調路線を表明する以外に日本はやることはないのか。米国と結び、対立する内容が日本には存在しないのか。本書は、欧州を専門とする日本人が書いた米欧関係論としてユニークである。

 本書の中心は九・一一以後の米欧関係であり、とりわけイラク戦争をめぐる相剋(そうこく)である。

 当然ながら、九・一一後におけるネオコンの台頭が問題視される。世界の民主化を米国の使命とし、米国の単独行動と先制戦争を是とするネオコンがブッシュ政権内で支配的とならなければ、イラク戦争も米欧破綻(はたん)もなかったであろうか。といって、本書は欧州の側に一方的に立って米国を難ずるわけではない。たとえば、フランスが米国の一国主義を国連の場で批判する時、普遍的な多国間主義ではなく、主要な大国間のゲームたる多極主義に立っているとする。米国の単独支配への従属を拒否する自立的欧州のため、国連の普遍主義を利用する。フランスもまた大国主義なのである。

 本書は多国間主義と集団的安全保障を好むが、終りの方で様々な米欧の議論を紹介し、今後の国際秩序再構築に際して、アイケンベリーやナイの「リベラルな現実主義」や聡明な優越者たる米国の観点を是としているように思われる。

小島ゆかり・評 『鴎外・茂吉・杢太郎…』=岡井隆・著

今はじめる人のための短歌入門 (角川選書) Book 今はじめる人のための短歌入門 (角川選書)

著者:岡井 隆
販売元:角川書店
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岡井隆の現代詩入門―短歌の読み方、詩の読み方 (詩の森文庫) Book 岡井隆の現代詩入門―短歌の読み方、詩の読み方 (詩の森文庫)

著者:岡井 隆
販売元:思潮社
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老いのレッスン―品格のある12人の日本人 Book 老いのレッスン―品格のある12人の日本人

著者:松原 泰道,小野田 寛郎,岡井 隆,石井 好子,メイ牛山
販売元:佼成出版社
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岩波現代短歌辞典 Book 岩波現代短歌辞典

著者:岡井 隆,三枝 昂之
販売元:岩波書店
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◇『鴎外・茂吉・杢太郎--「テエベス百門」の夕映え』
 (書肆山田・5040円)

 ◇「大都」たる創作者三人の森へ分け入る
 サブタイトルは、杢太郎が鴎外を評した言葉「森鴎外は謂(い)はばテエベス百門の大都である」に由来する。テエベスとは古代エジプトの首都テーベのことらしい。そして著者は、杢太郎も、さらに彼らとさまざまな関(かか)わりをもつ茂吉もまた、容易には全貌(ぜんぼう)の見えてこない百門の大都テエベスであると語り始める。

 三部構成の本書の大半を占める「1」の部分(歌誌『未来』に連載された評論)について、「あとがき」で次のように記す。

 「ここでわたしが話そうとした物語の主人公は、鴎外森林太郎、太田正雄こと木下杢太郎、そして斎藤茂吉の三人である。(中略)しかし、物語の本当の主役は〈時代〉の雰囲気だったのではあるまいか。明治という時代が終り、大正時代が始まる。そして第一次世界大戦に入って行く。簡単に一つのコンセプトでは律し切れない過渡期である」

 それはそのとおりであろう。しかしこの「〈時代〉の雰囲気」という言葉にこめられた思いはそう単純ではない。たとえば、「鴎外論」「茂吉論」「杢太郎論」など個々の評論では見落としてしまうもの、また三人をめぐるエピソードの集積では届かないものがあることを、著者ははっきりと意識している。

 本書に先立って刊行された『「赤光」の生誕』(書肆山田)、『歌集「ともしび」とその背景』(短歌新聞社)との三部作をもって示した評論のスタイルは、分析し検討し構築してゆく多くの評論とは異なる。むしろ回り道寄り道をしながら、著者自身の磁石をもって森の内部へ分け入ってゆくような方法である。なぜなら、創作者の内部を突き動かす得体の知れぬ情熱は、しばしば年譜の行間の空白に、作品の背後の暗闇に潜んでいることを、著者は体験的に熟知しているからだ。そしてわたしは、岡井隆にもっともふさわしいと思われるこのスタイルが、いよいよ豊かな実りをもたらしたことに深い敬意を覚える。

 分厚い本だから、簡単に要約することなどできないが、少しだけ内容にふれておこう。

 まず、鴎外の「我百首」の全注。用語を含めて難解なところの多い鴎外の短歌に対する独自の鑑賞が興味深い。そして「『我百首』が、定型の短歌でありながら、訳詩のような匂(にお)いをただよわせているのは、案外その作られた時間(鴎外独特の時間)のせいかもしれない」と結ぶ「『ハアゲマン』の一夜」(ハアゲマンはドイツの演劇人)は、一篇のエッセイとして読んでもすばらしい。

 また、茂吉の第二歌集『あらたま』の中の祖母の死をめぐる連作の読み解き。現実には伯母であった「祖母」の歌における、事実と詩的虚構の問題。一方で『あらたま』をテキストとしながら、人間を超越する行為としての「瞑想(めいそう)」や「遊行(ゆぎょう)」について考え、さらに杢太郎の満州赴任へと論は進む。

 医学者であり文学者であった三人にとって、医業も文学もどちらも「生きる」ための副業(つまりディレット)なのだったと言い、しかし杢太郎だけが皮膚科学といった外科系の学問であったことが、衛生学者鴎外、精神病医茂吉とは違った条件を生んだのではないかとの視点は、同じく医学者であり、文学者である岡井隆ならではのものだ。

 杢太郎の友人山崎春雄を探(たず)ねる経緯が伏流水のように流れ、三十代以降、医師太田正雄の影にひっそりと息づいて長い夕映えの中に生きた詩人杢太郎の姿を浮かび上がらせる。

 アララギを源流とする前衛歌人、岡井隆もまた、わたしには百門の人に思われる。

小西聖子・評 『杉田久女--美と格調の俳人』=坂本宮尾・著

杉田久女 美と格調の俳人 (角川選書) Book 杉田久女 美と格調の俳人 (角川選書)

著者:坂本 宮尾
販売元:角川学芸出版
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◇極小の詩型に命を懸けた者の悲劇
花衣ぬぐや纏(まつわ)る紐いろ〓

 杉田久女その人を知らなくても、この句を知る人は多いだろう。高浜虚子は久女の句を「清艶(せいえん)高雅」と評している。たしかに艶麗なのだが、この句の視線の先には男性はいない。あえて言えば女性が向かっているのは鏡である。性愛に向かわないナルシスティックな「艶」であり、配された個々の言葉の鮮やかさが句の品格を支える。まあ、意地悪に言えば、洒脱(しゃだつ)とか枯淡という境地とは反対であるともいえるが、私は輝いて張りつめた久女の句が昔から好きだった。

 杉田久女は明治二三年、エリート官吏の娘として生まれた。父の海外赴任について幼時を沖縄や台湾など南国で過ごしたのち、女子教育の最高峰である東京女子高等師範付属高等女学校を卒業した。当時としては最高のインテリ女性である。結婚してからは小倉に住み、地方の中学の美術教師に満足する夫とはうまくいかなかったが、兄の手引きで俳句と出逢(であ)い、高浜虚子率いるホトトギス派の女流俳人として頭角を現す。

 彼女を有名にしているのは、その作品とともに、自分の句集出版をめぐる虚子との確執、同人からの削除とその後の人生の暗転の謎にある。久女は昭和二〇年十月に太宰府の精神病院である筑紫保養院に入院、二一年一月、五五歳で腎臓病悪化のために病院内で死去している。食糧事情の最悪だった頃(ころ)の精神病院の生活を想像するに、これが事実上は餓死であったとしても驚くにはあたらない。

 このような経緯から、文学研究者からも、また病蹟(びょうせき)学研究者からも、杉田久女の生涯はたびたび関心を集めてきた。

 本書の著者は、山口青邨の弟子にあたるという女性文学研究者である。本書はもともとは、二〇〇三年に富士見書房から刊行され俳人協会評論賞を受賞し、今回角川選書として刊行された。この本は久女の人物よりもむしろ「久女の珠玉の作品そのもの」をその作出の流れにそって論じ、多くの資料から、ホトトギス同人削除の問題について論じる。中には著者によってはじめて取り上げられている資料もある。ていねいな久女の俳句鑑賞の書としても、女性の評伝としても興味深く読める。

 花衣の句とともに、久女最高の句の一つとしてよく挙げられるのが四〇歳の時の句、

谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ

である。句は、大阪毎日、東京日日両新聞の主催、虚子の選による帝国風景院賞(金賞)を取った。著者はこの句を次のように描く。

 「一句は自然を写しながら、その背後にこの聖域の清浄な空気のなかにひとり佇(たたず)み、心洗われる思いで鳥の声に耳を傾けている作者の姿を浮かび上がらせる。翼を持つものの自由さに羨望(せんぼう)と憧憬(しょうけい)を抱き、いつしか鳥と一体化している心のありようまで伝わってくるのである」

 何らかの精神病が途中から彼女を冒したのだとしても、そんなことは、芸術の価値にはかかわりないのが普通である。ムンクが統合失調症になったから「叫び」の絵は価値がないなんて誰も言わない。

 「創作者としての久女の悲劇は、作品の評価を自身で見極めることがむずかしい俳句という極小の詩型に命を懸けた者の宿命だったのかもしれない」と著者は言う。

 結社の「家父長」が作品の評価を握る特殊な世界。そこから逃れることもできず、かといって制度の中に埋没することもできない状況が、久女の悲劇を一層際立たせたのである。

沼野充義・評 『赤い星』=高野史緒・著

赤い星 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション) Book 赤い星 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

著者:高野 史緒
販売元:早川書房
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アイオーン (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション) Book アイオーン (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

著者:高野 史緒
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ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA) Book ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)

著者:高野 史緒
販売元:早川書房
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架空の王国 (fukkan.com) Book 架空の王国 (fukkan.com)

著者:高野 史緒
販売元:ブッキング
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◇幻想都市に散る華麗な電脳の火花
 いったい、いつの時代に迷い込んでしまったのだろう、と最初から快いめまいのような感じを覚えさせられる。「大序」の舞台は、クレムリンの中の修道院。ピーメン老師と若い修道僧グリゴリーの間で交わされる会話からわかってくるのは、ボリス・ゴドゥノフが戴冠しようとしていることだ。つまり、十六世紀末のロシアの史実に基づいているわけだが、不思議なことにこの世界ではインターネットが異様なほど高度に発達している。そして、日本はロシアの属国となり、江戸の将軍職は残っているものの、事実上ロシアのマフィアたちの群雄割拠の状態になっているらしい。だとすると、いわゆる「歴史改変」ファンタジーの一種だろうか。

 本編に入ると、舞台は一転して、ロシア支配下の江戸の町。町娘おきみは吉原きっての花魁(おいらん)、真理奈に呼び出され、「あたし、モスクワで皇后になるわ」と宣言され、江戸に潜伏しているらしいドミトリー皇子の情報をさぐるよう頼まれるのだ。この皇子とはイワン雷帝の息子のことだが、じつはずっと前にボリス・ゴドゥノフによって暗殺されたはずで、最近現れたのはどうやらにせものの「僭称(せんしょう)者」らしい。

 こうして小説は、きらびやかな吉原の風俗と、そこを闊歩(かっぽ)するロシア・マフィアらしき怪しい男たちという途方もない組み合わせに始まり、読者をあれよあれよという間に、見たこともない不思議な時空間に引き込んでいく。その後の展開は簡単にはとても要約できないくらい、多くの素材に彩られていて、バロック的奇想で飾られた絢爛(けんらん)豪華な画面を眺めているようだ。

 この架空の日本では、ロシアの首都ペテルブルクが世界で一番魅力的な町として人気が高く、皆がこの町に憧(あこが)れる。コンピューターのディスプレイが映し出す人気クイズ番組では、司会者の大黒屋が「ペテルブルクに行きたいかー?!」と人々を煽動(せんどう)する。しかし、おきみにはペテルブルクに人一倍行きたいと思う別の理由があった。幼馴染(なじみ)の龍太郎がこの町で消息を絶ってしまったのだ。そこで彼女はオンライン・ゲームの仮想空間の中で、自分の分身(アヴァター)を「現実の」ペテルブルクに送りこみ、そこで謎の「赤い星」到来の噂(うわさ)を聞き、正体不明のケーニヒ博士と接触する。そしてこの後、物語は江戸とペテルブルクで交互に展開していき、最後に択捉島のロシア正教修道院でのあっと驚く謎解きを迎える(それは読んでのお楽しみ)。

 それにしても著者のロシアに対する入れ込みようは驚くべきもので、本書で使われるロシアのいわゆる「動乱」(スムータ)の時代の背景は、プーシキンの詩劇『ボリス・ゴドゥノフ』を全面的に踏まえているし、表題になっている「赤い星」は、ボグダーノフによる火星を舞台とした先駆的な共産主義SF小説のタイトルそのものだ。

 だが、おそらくこの小説でもっともロシア的なのは、ペテルブルクという比類なく美しい都市の深い幻想性を基本的なモチーフとしている点ではないだろうか。沼地の上にピョートル大帝によって人工的に建設されたこの近代都市には非現実感がつきまとい、ロシア文学ではプーシキンからゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイにいたるまで多くの文学者が「幻想都市ペテルブルク」という主題を発展させてきた。高野史緒はその伝統を電脳空間の想像力によって引き継ぎ、サイバーパンクSFをロシア文学にいわば接合させ、火花を散らした。なんとも楽しく華麗な火花ではないか。

藤森照信・評 『森の力--育む、癒す、地域をつくる』=浜田久美子・著

森がくれる心とからだ―癒されるとき、生きるとき Book 森がくれる心とからだ―癒されるとき、生きるとき

著者:浜田 久美子
販売元:全国林業改良普及協会
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森をつくる人びと―素人山仕事かく楽しめり Book 森をつくる人びと―素人山仕事かく楽しめり

著者:浜田 久美子
販売元:コモンズ
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森の力―育む、癒す、地域をつくる (岩波新書) Book 森の力―育む、癒す、地域をつくる (岩波新書)

著者:浜田 久美子
販売元:岩波書店
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森のゆくえ―林業と森の豊かさの共存 Book 森のゆくえ―林業と森の豊かさの共存

著者:浜田 久美子
販売元:コモンズ
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◇五感がバランスよく刺激される場
 森をなんとかしよう、と志ざす人は少なくない。四手井綱英が“里山”という魅力的な概念を作ってから、森と日本人の関係に思いをいたす人はますます増えている。

 浜田久美子さんもその一人で、精神科のカウンセラーを経て森に目ざめ、森をテーマとする著述業に転じたのだという。

 森の力。いい題の本だ。5章目が「森の恵みを生かすビジネスを--森林バイオマスの可能性」に当てられている。バイオマスとは、生物由来のエネルギーのことで、森の木をエネルギー源として活用しようという動きは、全国的に盛り上っている。昔だと薪として燃やしたが、今は、間伐材をはじめとする森から伐(き)り出した大小さまざまな木を細かく砕いてカリントウのように固め(ペレットという)、新型ストーブで燃やす。ような動きが盛り上っているのだが、私は悲観的だ。

 先日、自分の山を持つ岐阜の製材所で聞いたが、ここ数年、薪ストーブ用の需要が大都市で急増し、やれナラの太割りしてくれ、香りがいいから山桜はないか、などなど昔では考えられないような要求に宅急便でせっせと応えている。利は大きいそうだ。

 著者の志とはずれるかもしれないが、森の恵みを生かすビジネスとしては、ペレットではなく、ナラの太割りや山桜の方ではないか。

 7章、8章は、地域産の木材を使う建築家たちの姿が登場する。地域の山から伐り出し、地域の製材所で挽(ひ)き、地域の大工さんが使う。現在、世界でこんな幸せな状態が、昔にくらべれば縮小したとはいえまだ続いているのは日本だけ。だいいち、21世紀の現在、木材を建築の柱や梁(はり)に自由に使えるのは、日本、北米、北欧の三地域だけ。三地域以外では、人肌にやさしい貴重な木材を、柱や梁に使うような狼藉(ろうぜき)は許されず、家具用がもっぱら。

 山から、伐って挽いて使う。他国から見れば夢のようなこの幸せな三拍子は、実用的なビジネスというより、文化的、芸術的な営みへとしだいに変ってゆくのではないか、と私は見ている。

 著者が語る森の力のうち、鮮度がありかつ明るい気持ちで読めたのは、1章、2章の教育施設としての森の話しだった。森を、学校や教室として考える。60年代にデンマークで始り、現在は日本でも試みられはじめたそうだが、森の教育効果など考えたこともなかった。

 冒険心が増すとか気持ちが落ちつくとか、そんなことではなく、コミュニケーション能力の向上がいちじるしいらしい。

 「森では、人間の五感が個別にも、総合的にも刺激される。そのベースは自然のもつ圧倒的な素材・機会の多様さだ。これにはどんな刺激的なおもちゃ、ゲームを駆使してもかなわない質と量がある。しかも、森は刺激に満ちているがどれかが突出することなく、マイルドである。だからバランスよくすべての感覚を刺激してくれる。そんなふうに五感を刺激し、かつ、何かが突出することのない場で、喜怒哀楽すべての感情をいいも悪いもなくありのままに出せること。さらに、適度な距離で受け止めてくれる大人がいること」

 こうした状態が元になって、子供は、自分の気持ちと他人の気持ちの両方をしだいに推し量るようになる。

 日本は、町や人里と森の距離が近い。山地70%、平地30%という火山列島の地形がそうさせるわけだが、幼稚園、保育園から大学まで、森を学校として考える方向はあって欲しい。

富山太佳夫・評 『禿頭礼讃』=フィリップ・エリアキム著

笑う大英帝国―文化としてのユーモア (岩波新書) Book 笑う大英帝国―文化としてのユーモア (岩波新書)

著者:富山 太佳夫
販売元:岩波書店
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英文学への挑戦 Book 英文学への挑戦

著者:富山 太佳夫
販売元:岩波書店
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文化と精読―新しい文学入門 Book 文化と精読―新しい文学入門

著者:富山 太佳夫
販売元:名古屋大学出版会
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『ガリヴァー旅行記』を読む (岩波セミナーブックス) Book 『ガリヴァー旅行記』を読む (岩波セミナーブックス)

著者:富山 太佳夫
販売元:岩波書店
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◇『禿頭礼讃(とくとうらいさん)』
 (河出書房新社・1680円)

 ◇悩みと苦しみの自伝的エッセイ
 フランスのパリ発の愛の小説である。主人公の青年はジャーナリストをめざし、やがてその願いを実現させる。時代的にはミッテラン大統領の登場する頃(ころ)の話で、「私は彼に投票し……彼の勝利を祝ってバスチーユ広場で踊りまくった……私は、当時大まじめに言われていたように、社会を変えたいと思った。貧しさを撲滅し、銀行を国有化したいと思っていたのだ」。

 金融不況のあおりをうけて銀行の国有化が取沙汰(とりざた)される時代の中で読むと、なんだか奇妙な感じのする一節ではあるが、これは一九八〇年代の話。それはともかくとして、パリ発の愛の小説であるから、主人公は何人かの女性と出会い、ひとりの画家の女性と同棲(どうせい)し、別離し、ということになる。時代の雰囲気も多少は伝わってくるし、西欧の古典への言及も少しはあるし、私の大好きなサッカー選手ジダンの名前も出てくる。全体を貫くのは主人公の強烈な苦しみと、そこから希望へと脱出してゆく姿である。

 ただ、こう紹介すると、なんだ、平凡な小説じゃないかと言われかねないが、それは違う。これはきわめてユニークな作品である--主人公がハゲなのだ。ジダンの名前が出てきて当然なのだ。

 正確を期すならば、二十三歳の主人公が脱毛の恐怖に直面し、映画俳優ユル・ブリンナーや思想家フーコーのような頭になることにおびえ、カツラの着用へと脱出してゆく物語である。本当は、自伝的なエッセイに近い作品というのが正確かもしれないが。カバーに載せられている二枚の写真を見ると、カツラの着用、無着用にかかわらず、著者は好人物という印象をうける。

 実のところ、ハゲほど論じにくいものはない。それはどの時代のどの社会にも見られる現象で、何でもないと言えば何でもないし、笑いやユーモアの種になることもあるし、耐えがたい苦痛のもとになることもある。例えば、テレビの画面に映る東国原知事や芋洗坂係長がハゲを笑いのネタにされて落ち込むとは思えないが、コマーシャルになると、育毛剤、発毛剤、カツラを宣伝するものが嫌になるくらいに流される。まるで毛髪コンプレックスをたれ流しにするかのように。そして、そのあとは、またお笑い芸人のネタ連発。どこかの新書から『ハゲの品格』という本でも出したらどうだろう?

 『禿頭礼讃』の帯には、「抱腹絶倒の……」と印刷されているのだが、私はこの本を読みながらただの一度も笑わなかった。「スープに落ちる髪の毛の一本一本が、引き裂かれた愛の花びらだった。脱毛に一ミリ領地を奪われると、それは別離と荒廃への一歩接近を意味した。……いずれは乾いた皮袋しか残らないだろう」。これはユーモアなのだろうか。禿頭でない人には笑える一節かもしれないが、それでは、今現在脱毛の進行に悩んでいる人にとってはどうなのか。この本を読みながら私が体験したのは、正反対の二つの反応の中間で迷うという感情であった。決して抱腹絶倒ではない。フランスの作家ジュール・ルナールの「毛が抜ける。すると虱(しらみ)はつかまるところがなくなる」という言葉にしても、同じこと。

 読者がそうした反応をすることを、作者は多少なりとも了解していたはずである。全篇に書き込まれた禿頭の歴史、イカサマ治療法、人的関係の悩みやトラブルの数々。この悩みと苦しみの自伝は、似たようなルートを通過せざるを得ない人々へのユニークな贈り物ではないだろうか。勿論(もちろん)、毛のある人間も読むべき本であることは間違いない。(酒井由紀代・訳)

村上陽一郎・評 『輿論と世論--日本的民意の系譜学』=佐藤卓己・著

輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書) Book 輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書)

著者:佐藤 卓己
販売元:新潮社
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メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書) Book メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)

著者:佐藤 卓己
販売元:岩波書店
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テレビ的教養 (日本の“現代”) Book テレビ的教養 (日本の“現代”)

著者:佐藤 卓己
販売元:エヌティティ出版
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◇『輿論(よろん)と世論(せろん)--日本的民意の系譜学』
 (新潮選書・1470円)

 ◇言葉の混同に潜む現代社会の病弊
 雑誌『考える人』に連載中から注目していたものが、本になった。極めて面白い。評子も戦前生まれだから、輿論という単語は当然知っている。それがいつの間にか、いや、その「いつの間にか」を詳しく分析するのが、本書の一つの狙いなのだが、とにかく、いつの間にか「世論」になり、しかも、これを「せろん」と読まずに、「よろん」と読むようになった。今では若い人々は、ほとんど「世論」を「よろん」と読んで怪しまない。しかし、もともと、「世論」を「よろん」と読ますのは、湯桶(ゆとう)読みというだけではなく、無理がある。というのも「世論」は、本来「せいろん」と読む別の意味があったからだ。常識としては「輿論」の輿の字が、漢字制限にひっかかったからだろう、という推論が、「いつの間にか」の根底に漠然とあって、それは評子も共有はしていたが、本書で明らかにされる「輿論」から「世論(せろん)」への、そしてさらに「世論(よろん)」への遷移は、非常に複雑なもので、それだけでも、戦後史のみならず、日本近代史の一断面を見事に切り取って見せてくれる。

 ただ、本書で著者が主張したかった最大の論点は、「“輿論=公論”と“世論=私情”を意識的に使い分け、“輿論の世論化”に抗することがまず必要なのではあるまいか」というところにある。つまり、輿論と世論とは異なる概念であり、それを混同するところに、現代日本社会の病弊が潜んでいること、そして、処方箋(せん)として、一人からでも始められる輿論をこそ、社会のなかに興していくべきだ、ということになる。「一人からでも始められる」というからには、「輿論」は決して「世間の趨勢(すうせい)」や「多数意見」のことではないのである。

 さて、輿論の世論化の経緯に関する著者の分析は詳細を極める。輿論の出発点は、五箇条の御誓文のなかの「万機公論に決すべし」の「公論」にある、とする一方で、「世論(せいろん)」は、明治一五年の軍人勅諭のなかの「世論に惑はず、政治に拘(かかわ)らず、只々一途に己が本分の忠節を守り、……」に由来する、というのが著者の見解である。大正年間の辞典でも「世論は世の中の人が国家や軍隊に関して勝手気儘(きまま)なる論説を試みること」とあるという。著者は、パブリック・オピニオンの訳語の成立も含めて、このほか、明治・大正期の多くの辞典類を比較し、検討している。

 こうして明確に区別されていた二つの単語が、戦後の混乱のなかで、どう変化するか。戦中の「世論調査」と国策の宣伝との関連を前史として、戦後GHQの思惑も含めて、国語改革の動きとの兼ね合いで辛うじて当用漢字が残される経過、そして、その経過のなかで、誰によって、どのようないきさつで「輿論」が「世論」になったか、が詳説される。そこには、当然ながら、新聞記者たち(毎日新聞の先輩記者も登場する)の考え方も反映されていたことが明かされる。

 その分析を土台にして、著者は戦後の歴史の節目である様々な出来事、六〇年安保、東京オリンピック、全共闘運動、角栄政治、小泉政治などを、迫真の筆致で捉(とら)えていく。著者は一九六〇年生まれというから、小泉政治を除けば、実体験は皆無のはずだが、その記述は、実体験のある評子にとっても、一々頷(うなず)けるものである。著者の表現の上での面白い工夫は、意見、意識、理想、言葉、正義感、戦略などの言葉に「よろん」とルビを振り、これに対して、感情、雰囲気、ムード、気分、本音、情念、好奇心、心情などに「せろん」とルビを振っているところにある。もちろんこれらの言葉は、それぞれ使われている文脈のなかで初めて意味を持ち、その意味にしたがって振られたルビも生きることになるが、著者の輿論と世論の使い分けの一端は、そこにも覗(のぞ)けよう。流行の「KY」の「K」つまり「空気」もまた「せろん」の典型となるのだろう。

 また、現在の情報革命によって、一方でテレヴィジョンのような映像が活字を乗り越えることからくる世論形成の変化や、他方で個人が輿論を発信する可能性が増えていることなどにも触れられている。

 この好著に触発されて、敢(あ)えて議論を試みれば、確かに私的な思い込みや「センティメント」に基づく議論が、「輿論」から遠いことはその通りだろう。古典的名著であるW・リップマンの『輿論』でも、世論的な立論がしばしばステレオ・タイプな認識に立脚していることが力説されている。しかし、もう一歩踏み込んで、知識論の立場に立ったとき、全くステレオ・タイプを脱却した認識が成り立つか、を疑うことはできる。著者も、公論と私情とを「きれいに腑分(ふわ)けすることは不能である」と書いておられるが、理性的な「公論」あるいは輿論と、私的、情緒的な世論との間を、どのように截(き)り分け、対立させるか、理性的にせよ、情緒的にせよ、価値的な概念に関(かか)わるがゆえに、問題は、哲学的には振り出しに戻り得るようにも思われる。

井波律子・評 『わたし…』=松本昌次・著、聞き手・上野明雄、鷲尾賢也

わたしの戦後出版史 Book わたしの戦後出版史

著者:松本 昌次,上野 明雄,鷲尾 賢也
販売元:トランスビュー
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戦後出版と編集者 Book 戦後出版と編集者

著者:松本 昌次
販売元:一葉社
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◇『わたしの戦後出版史』
 (トランスビュー・2940円)

 ◇強烈な個性もつ人々の結節点として
 本書の語り手、松本昌次(一九二七年生まれ)は、花田清輝、平野謙、埴谷雄高、丸山眞男、藤田省三、井上光晴、木下順二、富士正晴、野間宏、廣末保など、戦後の文学や思想を代表する人々の著作を次々に手がけた、「神話的・伝説的」な編集者である。

 本書は、下の世代に属する、これまた著名な編集者、鷲尾賢也と上野明雄が聞き手にまわって、次々に的を射た質問を投げかけ、これに触発された松本昌次が、まさに自らの存在を賭けて、生き抜いてきた「戦後出版史」の現場の様相をいきいきと語りあげたもの。余談ながら、私は聞き手と同世代だが、松本昌次の口から飛び出す著者名や書名の多くが、すでに神話・伝説的なものであり、一種、深い感慨を覚えた。

 松本昌次は一九四五年五月二十五日、最後の東京大空襲で焼け出され、家族ともども九死に一生を得た。このとき目の当たりにした、一面焼け野原となった凄惨(せいさん)な光景が、編集者松本昌次の原体験であり原風景だったといえよう。彼は戦争が終わると、それまで知ることのできなかった読書や映画・演劇に熱中し、「これまで何をやってきたのか」と、口惜しい思いにとらわれたと述懐している。こうした口惜しさをバネに、失った時間をとらえかえし、新たな出発をめざそうとする「焼け跡からのエネルギー」、あるいは花田清輝ふうにいえば「復興期の精神」こそ、松本昌次と戦後めざましい活躍を遂げた多くの著者に共通するものだった。

 松本昌次と彼の深く関(かか)わった著者の間には、全人格的に火花を散らして切り結びながら、「いい本」を世に出そうと「共闘」する稀有(けう)の関係性が見られる。こうした羨(うらや)むべき関係性は、おそらく両者が個別の体験を超えた原体験を共有し、深い共感があったればこそ、成立しえたと思われる。

 松本昌次が未来社の編集者となったいきさつにも、流動性あふれる戦後まもない社会の「弾み」を感じさせるものがある。すなわち、東北大学英文科を卒業後、紆余(うよ)曲折を経て、たまたま野間宏と出会い、一九五三年、その紹介で創業二年目の未来社にすんなり入社してしまったというのだ。以来、未来社で三十年、編集者をつづけて、文学、演劇、思想など多様な分野の書物を編集し、退社後、独立して影書房を創設、今なお現役でありつづける。編集にたずさわること半世紀余り、関わった書物総数は約二千点。まさに驚異的なバイタリティであり、戦後出版史の渦中を生きた、またとない証言者というほかない。

 松本昌次はいたって好みのきつい、しかし「惚(ほ)れっぽい」編集者だと思われる。著者との関係の始まりは、おおむね出会いの一瞬による。「ああ、この人だ」と閃(ひらめ)くや、全身全霊をあげて打ち込み、著者のもとに通いつめる。この結果、『濠渠(ほりわり)と風車(ふうしゃ)』をはじめとする埴谷雄高の数多くの評論集、花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』、丸山眞男の『現代政治の思想と行動』等々、特筆すべき名著が続々と生まれたのだった。松本昌次が惚れ込む著者は、総じて権威主義的な要素がみじんもなく、分けへだてのない自由な精神の持ち主だが、同時に、これらの人々は尋常ならざる知性と強烈かつ独特のパーソナリティーをもつ。

 松本昌次は著者の個人的エピソードを公けにすることを好まず、インタビューに手を入れ、本書としてまとめるにさいし、その多くを削除した由だが、それでもまま残されたエピソードには無類の面白さがある。たとえば、丸山眞男は頗(すこぶ)る付きの饒舌家(じょうぜつか)であり、近所に住む竹内好を訪れたときなど、玄関に入った瞬間から「機関銃の無限発射」のように切れ目なくしゃべりまくり、わずかのあいまを見て、竹内好が重々しく「そうかね」とつぶやいたという話などは、実に興趣に富む。しかも、その場に埴谷雄高も居合わせたという。

 この話には、戦後、それぞれの分野で他の追随を許さぬ大きな仕事をした巨人たちが分野を超えて、たがいに認め合い、自在に往来していたさまが如実に浮き彫りにされている。このエピソードの現場には松本昌次は居合わせなかったようだが、松本昌次という編集者を結節点として、著者同士の繋(つな)がり、理解の「ネットワーク」が広がってゆくさまが語られるのも、本書の大きな魅力だといえよう。

 戦争という原体験と問題意識を共有する著者と真摯(しんし)に向き合って、同時代を生きる読者にメッセージを投げかけ、本を作りつづけた松本昌次は、熱い時代を生きた編集者にほかならない。ホットな戦後精神もすっかり冷えきり、よくいえば冷静、わるくいえば臆病(おくびょう)になって、著者と編集者の関係のみならず、総じて他者と距離をおいた関係がよしとされる現代において、かつての熱さをそのまま蘇(よみがえ)らせることは無理だとしても、これを受け継ぎ、活(い)かす道はないのだろうか。過ぎ去った時の重さを痛感させる一冊である。

若島正・評 『植草甚一 ぼくたちの大好きな…』=晶文社編集部・編

植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん―J・J 100th Anniversary Book Book 植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん―J・J 100th Anniversary Book

販売元:晶文社
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J・J氏の男子専科 (植草甚一スクラップ・ブック) Book J・J氏の男子専科 (植草甚一スクラップ・ブック)

著者:植草 甚一
販売元:晶文社
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マイルスとコルトレーンの日々 (植草甚一スクラップ・ブック) Book マイルスとコルトレーンの日々 (植草甚一スクラップ・ブック)

著者:植草 甚一
販売元:晶文社
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カトマンズでLSDを一服 (植草甚一スクラップ・ブック) Book カトマンズでLSDを一服 (植草甚一スクラップ・ブック)

著者:植草 甚一
販売元:晶文社
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◇『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん--J・J 100th Anniversary Book』
 (晶文社・2310円)

 ◇自由なライフスタイルに憧れて
 わたしが植草甚一あるいは通称J・J氏の本と出会ったのは、一九七〇年代のはじめで、ちょうど植草甚一ブームが忽然(こつぜん)と巻き起こったころだ。当時のわたしは大学生だったが、授業にもろくに出ず、ごろごろして本を読み映画を観(み)る毎日を送り、将来に対する漠然とした不安を抱えていた。今にして思えば、植草甚一に出会うのは必然だったような気がする。最初のうちは、なんだかヘンなジイサンがいるなあとしか思っていなかったが、気がついてみると、手に入るすべてのJ・J本を買って読んでしまうほどになっていた。教祖風のあの顔にやられたのかもしれないが、植草甚一のどこがそんなに魅力的だったのか。それはおそらく、書かれている内容に影響を受けたというよりは、好きな本を読み、好きな映画を観て、好きな音楽を聴いて、それだけでどういうわけか生活できているという、あの自由なライフスタイルに憧(あこが)れを抱いたからに違いない。赤塚不二夫が描く天才バカボンのパパではないが、「それでいいのだ」と言われているような感じが、わたしにとっては心休まるものだった。

 植草甚一生誕百年を祝って刊行された『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』は、かつての植草ブームの火付け役となった晶文社の『ワンダー植草・甚一ランド』やその続篇である『知らない本や本屋を捜したり読んだり』を彷彿(ほうふつ)とさせる、いわゆるヴァラエティ・ブックの造りになっている。〈植草甚一スクラップ・ブック〉からの切り抜きや、さまざまな人々(ファン投稿もある)によるJ・J論、ロング・インタビューに、ニューヨーク旅行のフォトアルバムなど、詰め込みすぎと思えるほどに盛りだくさんだ。この雑然とした散らかり方が、J・J氏のスタイルに合っていたのだなあと思う。

 もう一つ思うのは、「おじさん」というポジションがぴったりだということ。植草甚一は、けっして「おやじ」のように説教を垂れたりしない。むしろ、どこの家庭にもいた、のらくら暮らしているように見えるが、妙にいろんなことを知っていて、「これはちょいとおもしろいよ」と気にいった本を勧めてくれる、そんな不思議な存在としての「おじさん」なのだ。だから読者は気楽につきあえる。

 植草甚一は、本質的に新しいもの好き、つまりはモダンボーイだった。それに感化されてか、大学生のころのわたしはアメリカの新しい小説ばかり読んでいた。歳(とし)を取ってから、新しい小説を追いかける気力と体力がなくなったわたしの目には、植草甚一がとんでもないエネルギーと好奇心の持ち主だったと映る。なにしろJ・J氏は六〇歳を過ぎてもまったく変わらなかったのだから。

 本書を読んでいて、発見したことが一つある。ロング・インタビューの中で、植草甚一はレスリー・フィードラーが編んだSFのアンソロジーについて語っていて、そのついでにフィードラーについてこんなことを言う。「だいたい、この男は、大学教授のときにドラッグであげられているんですよ。そのドラッグであげられた本が、一冊あるわけです。生徒たちと家でやっていた。そういった噂(うわさ)が、とんだわけですね。そういうことを全部、書いてある本がありますよ」。どういうわけか、植草甚一が持っていたその本がわたしの手元にある。「J・UEKUSA」と蔵書マークが入ったその本を、今横に置きながらこの原稿を書いている。わたしにとって、植草甚一は今でも生きているのだ。

若島正・評 『禁じられた遊び…』=巨椋鴻之介・著

乱視読者の英米短篇講義 Book 乱視読者の英米短篇講義

著者:若島 正
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ロリータ、ロリータ、ロリータ Book ロリータ、ロリータ、ロリータ

著者:若島 正
販売元:作品社
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殺しの時間-乱視読者のミステリ散歩 Book 殺しの時間-乱視読者のミステリ散歩

著者:若島 正
販売元:バジリコ
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◇批評的に語られた自意識の軌跡
 詰め将棋は、将棋を知っている人間なら誰にでも楽しめる遊びである。しかし、それにのめり込むと、底知れぬ世界が見えてくる。遊びであったはずのものが、ただの遊びではなくなる。そうして詰め将棋の魅力に取り憑(つ)かれたマニアたちは、詰め将棋のことを必ず「詰将棋」と表記する。本書『禁じられた遊び』は、昭和三〇年代を中心にして活躍し、一時代を築いた詰将棋作家である巨椋(おぐら)鴻之介が、自らの言葉で詰将棋観を余すところなく語った詰将棋作品集である。

 詰将棋を解いたことしかない人間には、詰将棋をどうやって作ればいいのか、想像がつかない。詰将棋創作はとんでもなくむつかしいことのように見える。しかし実際には、詰将棋作家の立場から言えば、詰将棋はどのようにも作れる。そしてどのようにも作れるからこそ、詰将棋創作はむつかしいのだ。つまり、作者があるはっきりとした意図で制御しないと、作品はかたちのないものになってしまう。このことに最も自覚的であった作家が巨椋鴻之介であり、『禁じられた遊び』は、詰将棋の理想的なかたち(それを巨椋鴻之介は「フォルム」と呼ぶ)を求めてたえず模索し、作り上げた作品のどこが欠点なのかを見極めながら、次に作る作品の取るべき姿を考えていった、自意識的な軌跡が描かれている。もちろん、創作にここまで自覚的な詰将棋作家が絶無だったわけではない。しかし、そうした作家たちは、格闘の最終的な産物である詰将棋作品だけを残した。言葉では語りえなかった。『禁じられた遊び』は、そこに収められた圧倒的な作品群もさることながら、それを緻密(ちみつ)で分析的な言葉で語ったという点で、おそらく初めての「批評的」な詰将棋作品集となっている。

 優れた芸術作品は、鑑賞する者に至福を与える。たとえば詰将棋なら、それを自分の頭で解き、作者が仕組んだ絶妙な構想を発見し、配置されている駒が何重にも働く機能的な美や、全体的なまとまりの美しさに触れた者は、この芸術パズルを知ってよかったとつくづく思う。ただその一方で、芸術家が自作について明晰(めいせき)な言葉で語ってくれたら、どんなにすばらしいだろうかと夢想することもしばしばある。本書では、その夢想が現実になっているのだ。

 本書の読みどころのもう一つは、著者の言葉を借りれば、「作品をその時代に置きなおす」配慮がされている点だ。必然的に、それは昭和の詰将棋がたどった歴史と、著者が実人生でたどった歴史を語ることになる。そういう意味で、本書は詰将棋の歩みと、巨椋鴻之介の本名である佐々木明という一個人の歩みを綴(つづ)ったものにもなっている。その本名は、最後のページでようやく登場する。フランス文学者で、『新スタンダード仏和辞典』の編者であり、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の翻訳者。そのような業績ですら影が薄くなるほど、巨椋鴻之介が残した詰将棋の作品群と、本書に刻み込まれた言葉たちは輝いて見える。

 「詰将棋創作はすばらしい遊びだが、遊びとしてはいささかキツすぎる。それは時間と精魂を吸いとり、学業、仕事、家庭--一言で言って実人生--を破滅させる危険をはらんでいる」と巨椋鴻之介は述懐する。その実人生からの要請で、一時期は捨てた詰将棋ではあっても、昔遊んだ玩具をふたたび手に取るように、こうして作品集をまとめた著者に、すべての詰将棋愛好家は感謝せずにはいられないだろう。そして作品を盤上に並べ直しながら、そこに注がれた作者の情熱を贈物のように受け取るだろう。

若島正・評 『巨匠の傑作パズルベスト100』=伴田良輔・著

巨匠の傑作パズルベスト100 (文春新書) Book 巨匠の傑作パズルベスト100 (文春新書)

著者:伴田 良輔
販売元:文藝春秋
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サム・ロイドの「考える」パズル Book サム・ロイドの「考える」パズル

販売元:青山出版社
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鏡の国のおっぱい―美しい日本の乳房 Book 鏡の国のおっぱい―美しい日本の乳房

著者:伴田 良輔
販売元:二見書房
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◇上質のミステリに似た奇想のひらめき

 数年前、オランダに旅行したとき、「数独」と呼ばれるパズルが大流行しているのを目撃して本当に驚いたことがある。空港ではキオスクの書籍売り場で数独が大きなスペースを占領しているし、飛行機の待ち時間を利用して、ボールペンを片手に数独とにらめっこしている人々が目につく。主要な日刊紙では、従来あったブリッジの常設欄がとうとう数独に乗っ取られてしまったという。「スードク」(ときには「スドク」とも発音される)という言葉が口にされるのを、わたしは何度も耳にした。それほどまでに、数独流行の勢いは猛烈だったのだ。

 何年かの周期を置いて、このように突発的に流行するもの、それがパズルである(この前の流行は、ルービック・キューブだったか?)。数独の場合なら、使うのは数字だけなので言語の垣根はなく、多少のコツを知っていて根気さえあれば誰にでも解けるところが、またたくまに世界中に広まった原因だろうか。解けた瞬間の快感以外におそらく意味がなさそうな、パズルを解くという無償の行為に人々が熱中する姿を見ていると、人間という生き物は頭を使うのが好きなのだなあとつくづく思えてくる。

 ここで紹介する『巨匠の傑作パズルベスト100』は、サム・ロイドとヘンリー・アーネスト・デュードニーという、十九世紀後半から二十世紀のはじめにかけて、大西洋の両岸で大衆に絶大な人気を博した天才パズル作家二人の作品を中心にして、古今東西の有名で懐しいパズルばかりをずらりと並べた本である。もちろん、古典パズルを扱った本に類書が多いのは避けられないが、本書は新書版という制約の下で望みうる、理想的な出来になっている。古典パズル史全体への目配りが利いていること、ロイドとデュードニーの伝記的な記述が的確でしかも読み物としておもしろいこと、ロイドがパズルのコラムを持っていた新聞のページが図版としてそのまま載っていること、など著者の目のたしかさをうかがわせる賞讃すべき点は多い。

 ロイドやデュードニーのパズルが数独のような根気型のパズルと異なるのは、誰でも解けるほど簡単なものではないというところだ。むしろその多くは、発想の転換やひらめきにめぐり会わないかぎり、ほとんど解けないだろう。たとえば、デュードニーの最も有名なパズルの一つである、「正三角形を四つの断片に切って正方形を作れ」という問題などは、よほどの数学好きでないかぎりとうてい解けるとは思えない。

 それでは、一般読者はこういうパズル本をどのように楽しめばいいか。まず、問題になっているパズルを、自分の頭で少しでもいいから考えてみることだ。そして、少し考えて解けなかったら、さっさと答えを見てしまってもかまわない。そこでわたしたちは、ロイドやデュードニーといった天才たちの、常識をひっくり返す奇想に直接ふれて、なるほどそうか! ときっと感心することになる。その意味で、本書は上質のミステリに似ている。ミステリを読むときでも、読者は犯人を無理に当てようとせずに、名探偵の推理に耳を傾けているだけでいいのである。ちなみに、本書にも出てくるロイドの代表的なパズルの一つで、人間が一人消失してしまう「地球を飛び出せ」を、日本のある有名なミステリの長篇小説がトリックに用いていたことを思い出しておこう。

 新聞雑誌の読者たちは、こうして新しい驚きを次から次へと提供してくれるロイドやデュードニーを愛した。つまり、当時は愛すべき天才が大衆に求められた時代なのである。デュードニーがパズル欄の連載を続けて人気を獲得したのは、コナン・ドイルが名探偵シャーロック・ホームズのシリーズを載せていた娯楽雑誌『ストランド・マガジン』だったというのは、けっして偶然ではない。新聞や雑誌で、身近な天才たちがもてはやされた時代というのは、なんとなくうらやましい。

 いささか余談になるが、評者は中学生から高校生だった頃(ころ)、学校にあった図書館にほとんど一番乗りをするようにして、早朝から通ったものだ。その最大の理由は、当時日本で翻訳出版されたばかりの、『サム・ロイドのパズル百科』三巻本や、デュードニーの『パズルの王様』四巻本を読むためだったのである。

 わたしはその後、チェス・プロブレムという芸術パズルを通してふたたびロイドと出会うことになった。ロイドから百五十年が経過した現在のチェス・プロブレムは、はたしてどれほどロイドを超えているのか、疑問に思うことがときどきある。つまり、ロイドが持っていた、なによりも奇想のひらめきこそが大切だという感覚を、現代のわたしたちはかなり失ってしまったのではないか。SFではないが、それこそ「驚きの感覚」(センス・オブ・ワンダー)にあふれた本書のパズル作品群が、不思議にノスタルジアに満ちたものに見えてくるのは、実は当然のことなのかもしれない。

2008年12月27日 (土)

村上春樹批判

村上春樹批判の本が結構出ているが、なかなか、新聞や雑誌の書評では取り上げられない。
まあ、理由はわかりやすいが。
内田樹がブログで以下のような村上擁護の文章を書いたのを、蓮實重彦が読んで「新潮」であげつらっている。

蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては「スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである」ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。
私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。
メディアもぜひこれまで村上春樹を酷評してきた批評家たち(蓮實や松浦寿輝や四方田犬彦などなど)にコメントを求めて欲しいものだと思う。

内田樹というのは超能力を信じていると公言する、アホであるが、小説はほとんど読んでないようだ。

村上批判で代表的な本で思い浮かぶのは

上野 千鶴子, 富岡 多恵子, 小倉 千加子『男流文学論』(ちくま文庫)

小谷野 敦 『反=文芸評論―文壇を遠く離れて』(新曜社

小森陽一『村上春樹論―「海辺のカフカ」を精読する』(平凡社新書)

渡部直己 『メルトダウンする文学への九通の手紙』(早美出版社)

また村上をめぐる評論家たちの奇妙な分裂については

吉岡栄一 『文芸時評―現状と本当は恐いその歴史』(彩流社)

男流文学論 (ちくま文庫) Book 男流文学論 (ちくま文庫)

著者:上野 千鶴子,富岡 多恵子,小倉 千加子
販売元:筑摩書房
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反=文芸評論―文壇を遠く離れて Book 反=文芸評論―文壇を遠く離れて

著者:小谷野 敦
販売元:新曜社
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村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書) Book 村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

著者:小森 陽一
販売元:平凡社
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文芸時評―現状と本当は恐いその歴史 Book 文芸時評―現状と本当は恐いその歴史

著者:吉岡 栄一
販売元:彩流社
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高橋源一郎という人生の終わり

高橋源一郎の「小説」を読んだことがあるだろうか?

一応小説としては


さようなら、ギャングたち(1982年 講談社)のち文庫、文芸文庫
虹の彼方に - オーヴァー・ザ・レインボウ(1984年 中央公論新社)のち新潮文庫、講談社文芸文庫
ジョン・レノン対火星人(1985年 角川書店)のち新潮文庫、講談社文芸文庫
優雅で感傷的な日本野球(1988年 河出書房新社)のち文庫
ペンギン村に陽は落ちて(1989年 集英社)のち文庫
追憶の一九八九年(1990年 スイッチ書籍出版部)のち角川文庫
惑星P-13の秘密 - 二台の壊れたロボットのための愛と哀しみに満ちた世界文学(1990年 角川書店)のち文庫
ゴーストバスターズ - 冒険小説(1997年 講談社)のち文庫
あ・だ・る・と(1999年 主婦と生活社)のち集英社文庫
日本文学盛衰史(2001年 講談社)のち文庫
ゴヂラ(2001年 新潮社)
官能小説家(2002年 朝日新聞社)のち文庫
君が代は千代に八千代に(2002年 文藝春秋)のち文庫
性交と恋愛にまつわるいくつかの物語(2005年 朝日新聞社)
ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ(2005年 集英社)
いつかソウル・トレインに乗る日まで 集英社、2008

今書店で手に入るのは文芸文庫に入ってる初期の3つぐらいだろうか
まあ、後、エッセイやら、詩なども書いているが、高橋源一郎は読まれない作家であり、そのくせ
テレビで競馬予想をやったり、選考委員をやったり、大学教授をやったりと、メディアの露出はそこそこあり、文学の評価ができる人という扱いになっている。

高橋は全く読まれていないのに、自分の判断が正しいとどうして思えるのだろうか?
高橋は、本当にポスト・モダン文学が有効だと信じていたらしく、平野啓一郎との対談で「ポスト・モダン流のはっきり物を言わないやり方が正しいと思ってた」というようなことを言っていて、呆れた。
自分のやり方が正しいと、思っていたのである。
ポストモダン文学はアメリカでも批判され、崩壊したし、日本では崩壊するほどのものもなかった。
日本で一時「物語批判」なるものが蓮実重彦などによって主張されたが、これは単なる、知識人の物語恐怖症に過ぎない。
結局小説とは物語であり、物語批判があるとすれば、結局別の物語を提示するしかなく、物語の解体ではない。
しかし、評論家は恐れている。物語が直接、読者の心を動かし、自分たちの関係ないところで人が動くところを。
高橋は間違ったのである。
高橋は読まれないし、ポストモダン文学も前衛文学も読まれない。
文学は完全に自由ではないのだ。それはポピュラー音楽が完全に自由ではないのと同じである。
それは必ず、5分から6分の長さをもち、人を感動させたりしなければいけないという、緩やかな「型」
がある。
文学も同じである。
「読者」が存在することを忘れた高橋の人生は駄目だったということだ。

いつかソウル・トレインに乗る日まで Book いつかソウル・トレインに乗る日まで

著者:高橋 源一郎
販売元:集英社
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一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786)) Book 一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

著者:高橋 源一郎
販売元:岩波書店
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さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫) Book さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

著者:高橋 源一郎
販売元:講談社
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ニッポンの小説―百年の孤独 Book ニッポンの小説―百年の孤独

著者:高橋 源一郎
販売元:文藝春秋
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日本文学盛衰史 (講談社文庫) Book 日本文学盛衰史 (講談社文庫)

著者:高橋 源一郎
販売元:講談社
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ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫) Book ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

著者:高橋 源一郎
販売元:講談社
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戦争文学を読む (朝日文庫) Book 戦争文学を読む (朝日文庫)

著者:川村 湊,成田 龍一,上野 千鶴子,奥泉 光,イ・ヨンスク,井上 ひさし,高橋 源一郎,古処 誠二
販売元:朝日新聞出版
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2008年12月24日 (水)

福田和也の無知を笑う

東京の流儀 Book 東京の流儀

著者:福田和也
販売元:光文社
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教養としての歴史 日本の近代〈上〉 (新潮新書) Book 教養としての歴史 日本の近代〈上〉 (新潮新書)

著者:福田 和也
販売元:新潮社
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昭和天皇〈第2部〉英国王室と関東大震災 Book 昭和天皇〈第2部〉英国王室と関東大震災

著者:福田 和也
販売元:文藝春秋
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贅沢な読書 (ちくま文庫) Book 贅沢な読書 (ちくま文庫)

著者:福田 和也
販売元:筑摩書房
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旅のあとさき ナポレオンの見た夢 Book 旅のあとさき ナポレオンの見た夢

著者:福田 和也
販売元:講談社
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福田和也が「SPA」で東浩紀や宇野常寛、柄谷行人を無教養だとだと言っている。まあそれは実はどうでもいい。
東浩紀や宇野常寛の相手をするのがあほらしいという気分をそういう言葉で表現しただけなのだろうから。
同じ気分である。
ただ福田の無教養をちょっとからかおうというのが趣旨である。
もちろん数学は中2で挫折したとか、自分で言ってるから、そんなことはつっこまない。
実はお得意のはずの歴史も無知だと多くの指摘がある。

福田和也氏の名宰相の条件(祥伝社、1600円+税)は、必読だ。
サッチャーは労働党だし、浜口雄幸は、日銀出身だそうだ。
さらに、イギリスでは、第1次世界大戦までは、
貴族院出身者しか首相になれなかったらしい。
ウォルポールも大ピットも草葉の陰で泣いているだろう。
福田がこんないい加減なやつだとは知らなかった。
校正者も校正者だ。

『日本人であるということ』ハルキ文庫、もすごいよ。
オスマントルコはモロッコを占領したし、
スペインにも攻め込んだんだそうだw
レコンキスタでイベリア半島から追い払われたムスリムは
たった200年、この半島を占領していただけなんだそうだw
アルハンブラ宮殿はマドリッドにあって、モスクなんだそうだw
その他いろいろ。
世界史の教科書すら読んでないらしい。
こんな奴が大学教師だなんて信じられん。


また『福田和也と“魔の思想”』中川八洋での指摘
ついでに、この『国家と戦争』を例として、和也の、他の、抱腹絶倒の
愉快なトンデモ発言をいくつか拾っておこう。

      「〔フランス革命での〕『サンキュロット』というのはズボンを履
       かないということなんです」(注1)

私は最初、和也が読者を笑わせるためジョークを飛ばしていると、思った。
和也は、慶応大学のフランス文科卒である。 修士号ももらっている。
ドイツ語が全くできないのにハイデガーを原書で読んだと自慢し吹聴してい
たのは知っていたが、 フランス語もできないなどと、誰が想像しようか。
「サンキュロット」とは、キュロット(半ズボン)を履く貴族や上流階級の 人々
でなく、”長ズボンを穿く”下層階級の人々、という意味で、フランス語を知ら
ない中学生でも知っている。 中学二年生のとき歴史の授業で習うからである。
和也は、きっと中学にもいかなかったのだろう。

山本七平賞の受賞作品となった『地ひらく』も、無教養と歴史の捏造の
宝庫である。山本七平賞は、いつの間にか”無教養”と”歴史の捏造”の
作品が絶対的な受賞基準になっている。その審査委員には、京都大学
法学部の目立つような劣等性で”京都大学の恥さらし”ともいわれる、
外交史の知見がこれまた中学生以下の、中西輝政がいる(注2)。
教養人であった山本七平が墓の中から怒っている声が聞こえてくる。
「ベルサイユ条約の孤児であったソビエトと、……」(注3)
歴史教養ゼロの和也は、「ソビエト(ソ連)」と「ドイツ」の区別もできない。
いや、ベルサイユ条約すら、全く知らないのだろう。ベルサイユ条約は
ドイツを対象としたもので、ソ連は関係がない。和也の常識は、小学校
五年生に及ばない。
(注2)中西輝政のような、高飛車な嘘つきは、学者の世界にそうざらには
いない。中西輝政「中国には<歴史>で勝負せよ」『諸君!』2005年7月号の、
旧敵国条項についてのところを紹介しよう。「一般には、<旧敵国>とは日本
やドイツを指すと思われがちだが、これは歴史を知らない明白な誤解だ。
…・・・日本だけを標的とするものだ」(31頁)。
国連憲章第53条第1項後段と第107条が定める「敵国」とは、「第二次大戦中
にいずれかの連合国の敵国であった国」を指し、具体的には日本、ドイツ、
イタリア、フィンランド、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーの7ヶ国である。
しかし、国際法が皆目理解できない、おそらく条文も読む能力もない中西輝
政は、「日本だけの1ヶ国」との珍説を恥じることもなく開陳する。
(注3)「地ひらく」『諸君』1999年9月号、230頁。単行本化の時、この部分は
削除している。


「日本人よ、女衒と詐欺師の末裔よ」と日本人を嘲り、「日本は漂泊者たちの家郷」
と日本国を貶め、ひたすらに日本に唾をはきかけるのが和也である。
かくも異様な、日本人に対する憎悪と日本国に対する呪詛は、狡智な歴史捏造に
よる日本断罪へとエスカレートする。和也の大著『地ひらく』は、その好例で、数々
の歴史の捏造で満載である。

例えば、「南京大虐殺があった」「日本軍は残虐非道」と強弁するために、石川達三
のキワモノ小説『生きてゐる兵隊』から長々と引用したり、素人眼にも創作だと見抜
かれて歴史資料から除外されている、奥宮正武の『私の見た南京大虐殺』をさも学
問的にも耐える史料として引用する(注1)。
小説を「史料」とする慶応大学教授など前代未聞だが、福田和也は学者でないこと
が、そのペンの強みとなっている。『地ひらく』のすべてにわたる、歴史学的に明らか
な歴史の捏造と歪曲は、まとめると優に一冊の本になる。


多くの嘘、ぱくりも知っているが、頭が相当悪いのかもしれない。

小谷野敦と羽入辰郎著「学問とは何かー「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後」

小谷野敦が羽入辰郎著「学問とは何かー「マックス・ヴェーバーの犯罪」を持ち出して、わめき散らしている。自分に酔ってきてるのだと思うが、似合わないからやめたほうがいい。
もっとも、学問というより、単なるゴシップ好きの戯言になっているが。
ところでこの本の評判は残念ながら評判が割りようだ。
羽入という人の人間性もだいたい推測できる

小林章夫(上智大学)
「マックス・ヴェーバーの犯罪」はヴェーバーのトリックを鮮やかに暴いて優れた書物となっていた。ところがこれをめぐっては、折原浩との間に激しい論争というか、折原側からの反論、糾弾、悪罵の投げつけがあり、これを受けて、満を持してた形で今回の本が出版されたという。まず一般読者としては、羽入の折原及びのそ賛同者たちへの反論は実に明快で筋が通っており、論拠も十分だと思う。その意味で、この論争なるものは羽入に軍配をあげることにやぶさかではない。陰惨な本である。タイトルの大仰ぶりはご愛嬌としても、「序」の部分の悪口雑言、エピソードなる部分の陰惨な内幕話、読んでいて痛快とは程遠い気分だ。それに何かと言えば奥さんを引っ張り出す部分も、嫌味としか言いようがない。ルサンチマンが溢れ出る大著は、もう願い下げである。

奥武則(法政大学)

副題にある本を著者が刊行したのは2002年である。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーは許しがたい「資料操作」を行っていると指摘したこの本を、折原浩が批判した。本書は、その折原に対する反批判である。-と書くと、まともな学問的論争に思えるが、本書はまことに異様である。よくもまあ、ミネルヴァ書房は、この本を出したものだ。羽入の前著を読んだときには、それなりに納得した部分もあったし、折原の批判も相当に度し難いという感じもないわけではない。だが、罵詈雑言が飛び交う本書を読んで、率直に言って、こういう人に、「学問とは何か」などと語ってほしくはないと思った。むろん、ここには「学問とは何か」に答える中身はない。「論争」ということで言えば、「文献学」を標榜する羽入に対する的確な批判として、丸山尚士「羽入式擬似文献学の解剖」(橋本努、矢野善郎編『日本マックス・ヴェーバー論争』ナカニシヤ出版)をまず読むべきだろう。

いずれも、トランスビューが出した小冊子「いける本 いけない本」いけない本として紹介されていた。
「学問」を重視しているはずの、小谷野氏はどう答えるのかだろう。
もうあきたから暴言をはいて自分に酔うのはやめてね。

学問とは何か―『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後 (MINERVA人文・社会科学叢書) Book 学問とは何か―『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後 (MINERVA人文・社会科学叢書)

著者:羽入 辰郎
販売元:ミネルヴァ書房
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マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書) Book マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書)

著者:羽入 辰郎
販売元:ミネルヴァ書房
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ヴェーバー学のすすめ Book ヴェーバー学のすすめ

著者:折原 浩
販売元:未来社
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マックス・ヴェーバーの哀しみ―一生を母親に貪り喰われた男 (PHP新書) Book マックス・ヴェーバーの哀しみ―一生を母親に貪り喰われた男 (PHP新書)

著者:羽入 辰郎
販売元:PHP研究所
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学問の未来―ヴェーバー学における末人跳梁批判 Book 学問の未来―ヴェーバー学における末人跳梁批判

著者:折原 浩
販売元:未来社
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2008年12月22日 (月)

笙野頼子インタビュー続き

7面 「私」という視点を使う、そこには錯綜した人間の心身がある

●思想を虚構のなかで使う
―――いろいろな書き方を笙野さんはされていますが、どういう効果をそれぞれ狙っていますか。

 効果というより、自分のなかの問題を未分化だけど普遍的な問題と思っていて、自分
自身を素材にして何かを書いています。あるがままに書くという私小説ではないけども。
つまり私小説とか自然主義という形式に収まらないから。しかし幻想とか非現実的なも
のを書いても現実性を求めます。その一方ポストモダン的な『Mille plateaux』の
リゾームみたいな状態だと、視点がどこにあるかわからないから、仮の視点を決めない
といけなくて、そこで「私」に視点を定めている。でも「私」というのも小説のなかに
持って入れぱ表象だよね。だからこの「私」という表象をリゾームのところに墜落させて、
そうして自分自身の内面から発生した物語を、言葉を書いていくと。そうするとそれは
もう哲学じゃなくて、具象になってしまうし、具象であるが故に虚構なんだよね。だけ
どその虚構と具象によってしか、ものが見られないくらいのポストモダン的な世界が
あるとしたら、そこでは文学が優位なんだと思って書いている。「私」というのを
持って入るのはそういうことです。

 もちろん表象の「私」というのは、作者の私とは違う「私」ですね。三作目のあとが
き60枚にはまさにそのことを書いていて、表象の「私」と作者の私は違うんだけどつな
がってて、作者の私が表象の「私」に歴史を与えたり、それでなんでもありの世界を規
定していくわけね。

 それと同時に、ものを書く文章のなかに自動運動するようなものが何かあるという信
仰をどこかで私は持っていて、それはロラン・バルトなんですよ。そうして、「私」と
いうものを用いることによって、ポストモダン的な全てが相対化された世界を、フィクションの中で再生させることができる、よみがえらせることができる。それはヘーゲル
的な上から見た世界観では捉えきれないような内面の問題を害くのに適している。

 ヘーゲル的な世界観というのを私は君主的な世界観だと思っています。それは国のた
めに死ぬとか、こうと決めたことは絶対に死んでもやるとかいうような高いモラルのも
とでしか使えない。それを一般の人が使っていったいどうなるのかという疑問があるの
ね。そもそも本当の君王の人がちゃんとそれを使ったことがあるのかとも思っていて、
ヘーゲル的な視点にすごく疑問を持っています。

―――いろんな表現をただ使うだけじゃ、ひけらかしのようにとられかねないように
思います。笙野さんの作品はそうは感じません。ちがいは何なんでしょうか。

 ひけらかしにとられるなら、とってもらってもかまいませんよ。ただそれは、必要で
使ってるってだけで。哲学は使った時点で限用になるじゃないですか。自分で使ってい
たら、間違ってることはわかっている。私という定点から見てるから限定性は知ってる。
じゃあその代わりに何があるかというと、喜怒哀楽とか身体性とか、土俗とか歴史とか、
人間の心身がある。

 この人間性を私は仏魂と呼んでいます。神的な、つまりは設定の集合であるような存
在と、仏というもともと人間であった苦悩を知る存在とを合体させることで、あるいは
仏という非情の哲学的存在と、現世の日本の神様という人間臭いお祈りの存在とを合体
させることで、上も下もなく混合させる。この混合した状態が、この国に生まれた私の
魂なんだと。現状、それを権現って仮に呼んでしまっている。

 ポストモダンの後で宗教の脱構築も入ってるってことかな。ほかには歴史性。それか
ら身体性、哲学が排除する「汚い」ものをたくさん入れて、それで哲学が歪もうが濁ろ
うが、間違えようが、あくまで虚構で使っている。便ってみて濁った人間のあなたに読
んでもらって、それで当たってるところがあったら参考にしてよ。そういう「冒険」です(笑)。

 哲学は抽象で全部おさえるでしょ。それだけでは人間はやっていけないかなと思うの。
でも哲学というのは便利だなと思う。便利だけど危険だよ。だから虚構でやる方がね(笑)。

―――『現代思想』2007年3月号で特集されました。ひとりの作家が扱われたのは
異例です。研究者や草の根運動家など他の分野の方と座談会などで交流されたわけですが、
座談会の冒頭でも話されていたように、何か得るものがあるからこのような企画に参加
されたのでしょうか。何か得られましたか。

 参考になりました。おもしろかったっ!自我とは何かという話で、私は所有が自我だ
とやっとわかったんだけど、池上さんという「現代思想」の編集長がそれはシュレジン
ガーが言ってることだと教えてくれたりした。それからあとアナキストがどういう風に
自我を作っていくのかと聞いたら、最初にあるものに抵抗することで作っていくんだ、
ニーチェもそうだと教えてくれた。

 あとよかったのは、『Mille plateaux』のなかで「領土化/脱領土化」という概念が
あるんだけど、あそこが人間の自我に呼応してるんじゃないかと言われたこと。だけど
 「領土化」というのは土地所有のことじゃないんだよね。つまり土地所有のことは再
領土化といって、領土化に失敗したあとでまた再領土化をするということらしい。そう
言われたときにまた私がわからないのは、以前に何かを所有するということがあって、
それに失敗したのかと。それってフェティッシュ信仰だろ、って思ったり。あるいは
もっと哲学なんだから、根本的な抽象的な、具体物では想像できないことを言ってるの
かと思ったり、いろいろ考えるわけですよ。

 自分の人生のなかで思想を使ってみたり、宗教を使ってみたりした上で、それをまた
虚構の中でやってみる。虚構の中だからちゃんとやれる。実際の人生だったら錯綜して
いて、何にも定着もしないし捉えられない。20代の後半、私は最初正直にやっていて、
錯綜を錯綜したまま書いていた。でもそのなかにもやっぱり構造は出てくる。それこそ
自動運動みたいなものが生まれる。

 『現代思想』の座談会のときには、一人運動家の人が多かった。私の場合も、一人で
何か執筆活動していって、ずーっと「活動」していった挙げ句にネオリベラリズム批判
に当たった。そこで共振できた。つまり大きなコードを、色んな学問や色んな運動の人
がひとりずつ掘っていった結果なのね。そのフェミニストの人も援助交際してる少女を
助けようとしている人で、だからその人も遊郭について書くことの悪っていうのを言っ
てたね。各々の人が掘っていって、色んな方向から掘って、で文学から掘っていったと
きにも、ネオリベラリズムにあたった。あたったとき、文学って一番人間に近いじゃな
いですか。だからみなさん喜んで読んでくれた。

●権現文学は終わらない

―――笙野さんは「文学の終焉」と呼ばれる状況に批判的なコメントをしていましたね。

 「文学の終焉」っていうのは柄谷本人が終わってるだけです。メジャーな人から見て
終わっても、マイナーな人の目から見て始まってることもある。それをマイナー文学、
女性文学って言い切ってるけども、それは違うだろお前らの方がマイナーだろ、と言い
たい。でもこういうことだけでは乱暴すぎるね。

 今から色んな問題をしゃべります。
 ひとつは、内面から発した文学を柄谷さんは読む能力がない。柄谷さんは、人間の内
面をマルクス主義的な交通の諸関係から発したものとして捉えている。だからフォイエ
ルバッハ的な内面を待った、私が権現文学と呼んでいるものを、彼は読む能力がないん
ですよ。それで「文学の終焉」と言う。

 柄谷さんは野間文芸新人賞の選考委員をしていたときに、『なにもしてない』をちゃ
んと通してくれたんだけど、他の選考委員の方が推したのを、これは私小説だからせま
い世界だ、と言って通した。この小説の中には他者がないとも言った。しかし他者とい
うのは彼の場合、まさにマルクスの、社会的諸関係の他者に過ぎないわけ。文学ならば、
肉体があって、都合良く動いてくれる、ストーリーの中の他者っているじゃないですか。
ああいう他者のことを言っている。あるいはまるっきりの自然主義のヒト、「個人」ね。

 ところが『なにもしてない』のなかの他者は違う。『なにもしてない』は、天皇の即
位の礼があって、その即位の礼で警備や騒動が起こるなか伊勢に帰るという話なんだけ
ど、その中で私はどの様な他者に対峙していたかというと、まさに土俗としての天皇に
対峙した。つまり自分の内面にある天皇、脳内天皇と戦わなければいけない状態になっ
ていた。自分の母から、わたしは「なにもしてない」からだめだと言われている状態に
いる。でも「なにもしてない」けど、小説を書いてたまに発表する。つまり日本語の役
に立っている。ただ国家から見て役に立たないってことに過ぎないわけ。家族が国家の
子弟みたいになってる状態だったら、すごくつらい。一方、それでもお金から何から親
に実際に迷惑かけてるから悲しい。それは錯綜してるんだけど、そのなかで直後に手に
湿疹が出る。そういう話なんだよね。つまり外界にかぷれるということは国家という他
者にかぶれるということで、天皇にかぶれるってことなんだけど、それが柄谷さんには
わからない。

 もうひとつ、秋山駿さんが、天皇の即位礼のことが出てくると、小説がだめになると
言ったけど、それはまさに社会性というもののはき違えです。内面を持った人間が、外
のイベント天皇即位礼にあたってさまざまな反応をするということは、自分の中にある
天皇を、外の天皇に当てはめて確かめているんだから、やっぱりそれは家の中で思考す
るのと同じ行為なんだと。いろいろなところで、一つの天皇、脳内天皇を追求した結果
があの小説なんです。

 他の人が読んで、俺の天皇はこうだとか、天皇はこんなに人に影響を与えているのか
とか、じゃあおれもいつの間にか国家に影響を受けているのかもしれないとか、そうい
うことを考えるきっかけにはなる。天皇って何かわけのわかんないものですよね。儀式
とかいっぱい。それで昔京都にいて、今東京にいる。京都だといまだに、『なにもして
ない』に書いたけど、「天皇はん」とか呼ぱれている。後水尾天皇あたりのときには、
短冊なんかを一般人に気軽にくれたという話もある。そういう天皇のわけのわからなさ
が、まさに他者性なのであって、現実の一人の人間ではなくとも、私はちゃんと他者を
書いてる。内面の他者、想像力の他者です。フォイエルバッハ的な他者と私は言ってま
すが。でも柄谷さんがないといったのはマルクス主義的な他者。『ドイツ・イデオロ
ギー』の他者が柄谷さん、キリスト教の本質の他者が私。だから私の方の文学、権現文
学は終わらない。

 そして、たぶん柄谷さんの言ってる文学って、外からみてわかる、ストーリーのある
部分だけだと思う。『日本近代文学の起源』のなかの結核について書いているところを
見ても、あの中で文学と呼ぱれたものを、私はとても文学だとは思ってない。あれは
劣化する部分だとしか思ってない。だから「文学の終焉」というのは間違っている。

 もうひとつは、ポストモダンの中に、この前また『Mille plateaux』を読み直してて
思ったんだけど、「個人的言表などない」という言葉があるんですよ。これはどういう
ことかというと、フロイトを批判する立場であの本はできてて、フロイトはすぐ父に結
びつけて、権力側一方向の読み筋にするけど、そんなこと言っても治療にならないと言
うのね。それを私は、一方向から語れるような「私」なんてないっていう意味だと思った。

 大塚某とかが私小説の中の「私」などというものはインチキだとやたら言うじゃない
ですか。だけど現実の私と表象の「私」が違うのなんか当たり前なわけです。
その「私」という表象が言語の中にどうやって配置されてるかが問題なんですよね。
しかもその「私」を内面から発して書いてたら、一定のコードで理解するんじゃなくて、
自分自身の想像力の中で、楽譜を読むようにしてそれを読んで、普遍的な共振を行わな
ければ理解できないわけですよ。なのに、私小説を乱暴な読み方をして、「私」などな
いと言う人々。これはドゥルーズ&ガタリの悪しき誤読に見えました。今の世相は、ポ
ストモダン気取りのおんたこ共の「文学などない」という言葉の劣化した結果なんじゃ
ないかなと想像してみています。

 本当は、精神病治療をするときに近代的な自我で語っただけでは無理だということな
んだと思うんですけど。じゃあ自我はどこにあるかというと、強いて言えば『Mille pla
teaux』だったら、「領土」という問題があるんだけど、その「領土」というのが近いん
じゃないかと。それから「国家」というのがやたら出てくるから、それに国家に反抗す
る自我というのがニーチェでもアナキストでもあったから、その辺りもそれっぽいもの
じゃないかって思ったり。それらしいものは見えるんだけど。でもあれを自己という認
識で言ってるかっていうと、それはちょっときつい。すごいややこしい根源的な言い方
ばっかりするでしょ。動物とか、自然とか、数学とか、全部に及ぶことを言ってきて。
じゃあ自分なりに切り取るしかない。ひとりひとりでね。

 私は仏数的自我と言ったけど、ラリイ・マキャフリイは、戦争とか社会性に注目して自我を考えている。

 彼は文学は社会性だと言ってる。私も極私的言語の戦闘的保持だと言ってるくらいだ
から、社会性の問題は大事なんだよね。社会性は対抗性であったり、所有であったり
内面性の問題であったりする。それこそ内なる少年を抱えて、私は生きてるわけだから。
自分が死んだ時はその少年が迎えにきてくれて、もしかしたら自分は男の子に戻って
一緒に遊ぶのかもしれないし、あるいはお母さんになってその子を連れて一緒に天国に
行くのかもしれないし、恋人かもしれない。そういうところがある。そういうものを
柄谷の近代的自我では捉えきれない。

 だから「文学の終焉」という言い方自体がものすごく非哲学的で、使ってはいけない
ところに頭の乱暴な人が無理に使った結果、出てきた言葉ではないかと私は思います。
こんなん浅田彰に言ったらふふんって言うだろうけど、浅田さんが頭は乱暴です(笑)。

●文学界のいま

―――長く作家をされてますが、後進の作家についてはどうですか。文学界に変化はありますか。

 あったんです。あったとだけど今なくされている。例えば90年代の成果を全部なかっ
たことにしようとする大きな流れにのみこまれている最中なんですね。抵抗するだけで、
精一杯です。ポストモダン的なものがとても低調浮薄に流れていた部分はあったかもし
れないけれど、だけど時代が上から見たストーリーとか上から見た強固な世界観とかを
突き崩している風潮の中にあったことも確かでした。そのなか、個人で実戦することで
私はアヴァン・ポップをやってきた,今アヴァン・ポップは古いくさいと言われるんで
すけど、古くさいと言われるほどはやったことは1度もないですよ。80年代末に記号的
なものとして消費されているけど、そのときは完全に誤解されていて、時代の相対化と
いうことさえ言われなかった。

 そして最近の芥川貫はだめだと『タイムスリップ・コンビナート』のときから言われ
始めた。ポストモダン的なのや、アヴァン・ポップや女性・マイナー的な90年代文学が
主流に出てきたときですよ。時間は私のなかではどんどん進んでいて、読者は先鋭にな
ってついてくる。だけど、劣化した近代文学の側からはそれもカンにさわる。田中はパ
シリで、今は劣近と私の総力戦です。でもそれはネオリベラリズムの流れの中で、特定
の会社員が権力を持ったり、たまたまそういうことが重なって、そのなかでやられてる
ことであって,文学はまさに多様へと変わっていかなきゃいけないんだけど、変えよう
とすれば消されるっていう状態。だから、文学がダメだと言うときの文学は、古い文学
が新しい文学に対して言ってくるだけで、自分たちをずるずる延命するために新しいも
のや多様なものを排していくわけ。私は古いものに消えろとは言ってないのにね(笑)。

―――私の出身地が和歌山で、中上健次が好きなんですよ。

 私が好きなのは『日輪の翼』と『紀州―木の国・根の国物語』です。土地に根差した
ものっていうのがすごく好きです。『異族』みたいに土地を解体して世界的な視野で書
こうとしたときに、ヘーゲル的とは言わないけれども、近代文学的なもののダメさが前
に出てきたような気がする。でも中上さんがやってきたことは好きです。土俗とか歴史
のなかにいながら錯綜させたものを書こうとしていたし、錯綜した答えを持っていた人
でした。だけど、私は古市を書くのがすごく怖かった。

 でも、中上さんの発言は昔から嫌いでした。要するに風呂場で独り言を言っているよ
うな文学はだめだとか、いかにも70年代が言いそうなことを。だから、昔はもし中上健
次に会ったらとにかく殴ろうと思ってた。もし殴れなかったら、ビール瓶を割ってその
割ったビール瓶で頭を叩いてやろうと思ってた。何でかわからないけど、中上に会った
ら絶対殴ってやるとそのときの担当者に言ってて、そんなことできるはずないのに何で
信じてたんだろう(笑)。けっきょく一度も会わないで死んじゃったんですよ。

 でもこの人、点数制の文芸時評という失礼なものをしていたとき、他の新人は20点と
かなのに私にだけ新人の中40点ぐらいつけてくれたことがあるんですよ。笙野頼子だけ
はものを考えていると思うとか言ってくれたんで、みんなが喜んで、「ほら中上さんが
こんなにほめてくれました」って言うから、「なにがだ、文学に1点とか2点とか単位
があんのか、お前こそ考えてないくせに殴ってやる」って、そのときまで怒ってた。そ
のときほめてくれたのは『呼ぶ植物』という作品です。気になってたんです。気になって
気になってしょうがない中上健次。

 中上さんと同郷の新宮出身で『すぱる」の新人に朝倉祐弥という人がいます。私が選
考委員のときに選んだんだけど。ゲーム感覚のなかで、どろどろして面白いものを書く
んで読んでみてください。そう言えば、「群像」のときの新人で当時京大生だった寺村
朋輝も、図書館にあると思いますから。この2人は独特だけど、古い文学から無視され
ています。(了)

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笙野頼子さんは、巽孝之に騙されてかわいそう

笙野頼子さんは、巽孝之を信じちゃったのが不幸だったね。安藤礼二だのラリイ・マキャフリイ(笑)だの
ごみくずを信じたら地獄に落ちてしまうね。このようなくず評論家は責任も絶対とらないからね。
笙野頼子さんが「京都大学新聞」でのインタビューを見ました。
前衛なんか信じないで読者に向かって書くべきでした。
巽・安藤なんての馬鹿なんですから。

京都大学新聞 2008年3月16日号(第2415号)5・6・7面

特集 笙野頼子インタビュー「笙野流・戦う文学 いんちきな言説をブチ破れ」

●京都時代 執筆に至るまで

―――笙野さんは三重県伊勢のご出身で、大学は立命館大学に通われていたそうですね。
京都での学生時代のことをきかせてください。

 最初の2年間は東山から広小路校舎まで、一日往復5キロぐらい歩いて通ってました。
パンプスなんてはいて、だからとてもいい運動になりました。たまには8センチのハイ
ヒールもはいて(笑)。服は汚いジーパンを着ていることもあったけど、最初は母親が
着させるんでワールドの若向きブランド、国産ニュートラを着てました。けど、ルイ・
ヴィトンとかは持ってませんでした。店はふじやとかジロー、たまに入ってたね。三条
に高瀬舟とかあるところあるじゃないですか。あの辺り見てると、石畳の上に労働者の
方が3人ぐらい座って、前に小さなビールの小瓶を三本おいて宴会をしているんですよ。
知らない景色を見つつ、学校に行ってました。

 立命では法学部。ゼミは民事訴訟法だったんですけど、これがけっこう哲学的な法律
でして、要するに法律に常識を使うことは大前提なんだけど、常識をはずして非常識な
訴訟をしてくる人をどうやって訴訟からはずすかという、ややこしい小理屈を延々と回
していく学問で、たいへん勉強になりました。立命館はわりとバンカラな学校で、昔は
50円のパンフレット代を徴収すると、「おれは今日の学食のご飯はみそ汁だけです」っ
ていう人がいたりするようなところでした。男子はバンカラでもいいやつが主流で、し
かしひとり変なのがいて、「男女同権だから触らせろ」なんて言われて、登校拒否に。

 住んでいたところは、築35年の下宿です。親はいいマンションに住めって言ったんだ
けどね。でも面白いから。まず、いたちがいるんだよね。畳の端に穴があいてて、そこ
から出入りしてる。朝になったら下から日が射してきて、のぞくとすずめがいる。すご
い気に入ってて、そこでホラーな短編を吉いたりしてました。門限は基本6時です。

 京都というのは歴史性の強いまちで、一方伊勢とちがって仏教のまちじゃないですか。
だけどそのころ仏教ってものの多様性に気づかなかった。たとえば京都を『レストレス
・ドリーム』のモデルにしたときは、仏教寺院が敵みたいになってた。やはり抑圧性は
強くて、最初、「これは京都特有のおだんごで花見だんごといいます」「これは京都特
有のお茶でお番茶っていいます」とか言われたけど、別に三重県だってそんなものいっ
ぱいあるし、とんでもない閉鎖性のあるところに来たなって思った。京都の閉鎖性のな
かで伊勢より共同体はきついなってことを再認識したりしながらいました。

 当時、凝ってたのは古い布を集めること。でも見る方ばっかりで、少し持ってるのは
値段下がってます(笑)。歩くだけで、国宝みたいな寺や庭があって、
そこに長谷川等伯の襖絵があったりして、そういうものも見て暮らしてましたね。

 本はSFいっぱい読んで、社会科学の本もたくさん読みました。フォイエルバッハは
読まなかったけど、マルクスとかラスキ、『リヴァイアサン』なんかも読んだ。あと好
きだったのは、ちょっと恥ずかしいんだけど『デモクラシーの本質と価値』っていう
ハンス・ケルゼンの本。当時は民青がすごい威張ってたんで、プント系も小説に書いた
けど大嫌いで。とにかく右へ走るしかしようがなくて、小泉信三まで読んでましたね。
小泉信三って、皇室がどうのこうの言うような右ですよ。『共産主義批判の常識』とい
う本を読んで、マルクス主義を批判しまくっていた。で、授業で批判して勝った。だけ
ど、今の左翼の凋落を見ながら、唯物史観は物の見方として大切、でも『ドイツ・イデ
オロギー』でもう劣化してたという考えになってきたんで、批判はするけれど、敵は右
も左もない別のものだと、結局四半世紀以上考えて、自分なりの解決を見出したと思います。

―――学生のとき書き始めたんですよね。

 まず、21歳のときに、夢に影響されてどんどん寿命を縮めていく女の子の話を。あと、
女の人が主人公で、廃屋のなかに少年がいる話。そういう幻想的な話を書いてましたね。
耽美っていうのかな、自分自身の思考を描写に移したようなものを書きました。ところ
があるとき、ふと主人公を大人の男にして距離を置き、観念語でいっぱいの『極楽』
を書いた。ほんとに数回の応募でぱっと入りましたね。それからあと10年大変だったけ
ど。私ほど文学の世界のことを何にも知らないで当選した入って珍しいんじゃないかな
あ。地方にいたし。それにひきかえ、そのとき落ちた高橋源一郎さん、まさに文学の
エリート的な人。半年後、高橋源一郎さんは長編新人賞の優秀作になって、それではっと
気がついたらワープロのコマーシャルに出てる。『若者たちの神々』っていうシリーズ
あけたら、私の賞をとったって書いてあった,私のだって思って大変あせった(笑)。

―――書き始めのきっかけは。

 ノートに何か書くのは、伊勢で高校生のときからしていました。詩みたいなものを書
いたり。あと、芥川龍之介の『侏儒の言葉』持ち歩いて、皮肉っぽいのが好きで、そう
いうもののまねをしていました。
 十七、八のときってものすごく死にたかった。自分が女の人になっていくのも嫌だし、
いろんな意味で体が死にたいという感じだった。嫌なこともあった。そうすると、まだ
子どもだったから、死ぬということが耽美なものと結びついた。その死の気分をノート
に書いたりして、美の中にいると一日生きられた。自分は死にたいってことをいちいち
書くんだけど、その一方で太宰治とか嫌い。

 だから小説は、まずその死にたい気分の女の子が主人公になって出てきて、それから
その死にたい気分の女の子の救いとして脳内の他者みたいな男の子が現実的なストーリ
ーのなかに出てきて、それから恋愛ゼロのまま描写と空想がいろいろあるって感じ。
男の子だけを書いたこともあったけど、それはほんとに箸にも棒にもかからない。
やおい的でもないの。自分の分身みたいな、あるいは自分の中にいる男の子みたいなも
のが出てきて、世の中に絶望してきたとか言う。どうしようもないですよ。

 自分の思考とか曖昧なところがふっきれたとたんに活字になるぐらい文章力は、最初
からあったかも。文学全集みたいなものは家にあったし、親戚のところにもあったから。
小学校6年、中学校1年ぐらいまでに武田泰淳とか三島由紀夫とかも読んでたのかな。

 おばあちゃんも俳句やってたしね。溺愛されてました。ただし、俳句のときだけは鬼
ですよ。山□誓子の弟子だった。そのときは孫もたたき台で。句作って私を怒るだけ。
すごいかわがってくれても、俳句のときは。いまだに怖くてあんなもん作んない。

―――学生のころに森茉莉さんの本を読んだと。

 そうそう。市電が通る馬道の本屋さんで買った。はまったね。私は十七、八まで少女
漫画とかほとんど読んでない。手塚より水本しげる。茉莉も少年マンガ好きなんです。
女の人が一人でいて、自分自身と対話して生きている世界というのは森茉莉が最初ぐら
いかなあ。それまでは全集も男の人のばかり読んで、あんまり女の作家の書いたものっ
て読んでないと思う。

 スタイル画は描いてても少女漫画は読んでない。スタイル画っていうのは、少女漫画
の少女が花に囲まれていたり、お人形を抱っこしていたり、要するに少女漫画の挿絵み
たいなもの。「子犬と少女描いて」ってうまい子に頼んだりするわけ。私どへたくそな
のに頼まれる方だったな。絵一枚書いちゃうと、ストーリーいらなくなる。「少女フレ
ンド」とかね、楳図かずおしか読んでない。「マーガレット」は古賀新一しか見てない。
ホラーだけ。それで小学生のとき怖い話作ったり。そのまま、コム・ガロに行きました。
特に幻想系のマンガ。

●権現文学と主体なき言語との戦い

―――『だいにっほん』三部作を書き終えられました。執筆までの経緯についてお話しください。

 第一部から今に至るまで、障害物レースでした。内容のハードルはともかく外からの
障害がすごい。まず掲載誌の「群像」を私は1年以上追放され、叩かれていた。編集長
が変わり、戻ったとたんもっと上の人から今度は野間新入賞の選考委員をクビになった。
やっと出した一作を、当の「群像」で批判される中で反論しながら二作目。そしてつい
に、去年の9月に『だいにっほん』三部作執筆の準備をしていたんですが、『群像』2
007年10月号です。私をクビにした人々の大変重用している、そして第一作から私を
叩いていた田中和生さんの「フェミニズムを超えて」というのがどーんと出て、その中
で『だいにっほん、おんたこめいわく史』はいらないということが次号に完結編を載せ
るはずの雑誌に書かれていた。この三部作は、「群像」の新しい世界観のために書いた
んです。私は文学を自由にして、なおかつこの世界のある程度の構造を、不正確でもフィ
クションの中でなら構造はつかめるという気持ちで、ネオリベラリズムとか、あるいは
その中で主体性なき言語が氾濫してとうとうどん詰まりにきた日本の状況とか、そうい
うものを書いていこうと思いました。書いてるときには意識しなかったけれども、後か
ら考えると、『Mille plateaux』(『千のプラトー 資本主義と分裂症』河出書房新社)
というドゥルーズ&ガタリの本の、思想そのものを使うんじゃなくて、例えばリゾーム
などのものを、ものを考えるモデル、世界観のモデルとして使っていたなあということ
が自覚された。

 この作品をまた、私はアヴァン・ポップの作品として書きました。アヴァン・ポップ
というのはラリイ・マキャフリイという人が提唱した概念で、これはモダンとポストモ
ダンという二項対立的な分け方に懐疑を呈している。なおかつその懐疑が非常に現実的
で社会的なものであった。グローバル経済の中で氾濫するポップ文化の前に文学が立っ
た時に、じゃあ文学はどの方向に行くかというような、切実さを持っていた。モダンと
ポストモダンを相対化するというくらいだからラリイ・マキャフリイというのは時代を
通じてものを考える人で、大学の講義でますセルバンテス、ラプレーから読ませる人で
す。最初、私はたまたまラリイさんのそのあたりを知らないで、SFと純文学の隣接現
象という、単なる現象のひとつを捉えて、そして共闘、共振してきた。

 しかし、その後私は宗教史というものを勉強することにしました。そして、宗教史の
中に唯物史観的な考え方を取り込んだ、義江彰夫さんの『神仏習合』(岩波新書)とい
う本を読みました。そうして宗散史の自我というのを考えたときに、柄谷行人さんの言
うような近代文学の定義に疑問を感じたし、それからその柄谷さんが定義する近代文学
の外にあるものこそ、本当の時代を通じてある文学ではないかと思った。だからと言っ
て丸谷才一さんたちのように、能天気に美しい日本語がいいと思って劣化を肯定してい
るわけではなくて、中世というところに着目しながら、近代より先のところにあるポス
トモダン的な考え方も参考にしながら、ひとりの人間としてこの思想を全部自分なりに
下手でも、それから読んでる本の冊数が少なくても、馬鹿なりに使ってみようと思った。
ラリイさんとはお互い一層近接した考えになると同時に、宗教について私は独自になっ
ている。そして日本文学の伝統もあるため、私はときどき自分では権現文学だと言った
りします。


 そういう考えの中で三部作を書こうとしたのですが、田中和生さんは今まさに三部作
が発表されようとしている直前に、要するに不毛だ、不毛だからいつまでも続くんだと、
そして「おんたこ」とは「おとこの含意」と因縁をつけてきた。一方黙って三作目を載
せられるほど私は偉くない。しかも本当の「おんたこ」の意味とは、つまり主体なき言
語のことなんです。語源的に言えば「おたく」の誤変換。悪しきおたくだとか、誤用さ
れた哲学等を指す。あるいは私に言わせればマルクス主義の中の『ドイツ・イデオロギー』。
それも『ドイツ・イデオロギー』の唯物史観の中の、非常に浅はかな論調ですね。唯物
史観そのものを私は否定しない。大元のところですごく正しい考えだと思うんですけど
も、その唯物史観を伝えるときに、あの本は人間の内面というものを人間の諸関係の産
物に過ぎないと言ってしまった。

 だけど、人間の内面というのは、個人だけでいる時にもあるというのが私の考えです。
それは唯物史観、唯物論者であっても、フォイエルバッハの考えなんですよ。だから
『ドイツ・イデオロギー』の少し前の考えですね。フォイエルバッハの考えというのは、
人間はひとりでいるときに言葉を使ったとしても、言葉というものを使う以上は社会的
な行為をしているという考え方なんですよ。ひとりでいても社会性があると。

 私はそこから発して、他者のイメージというのはどういうものかと考えたときに、
自分の中に想像上の他者がまず発生すると考えた。その想像上の他者を憐れんだり愛し
たりすることから、実在の他の、社会的な他者に対する憐れみもすべて発しているんだと。
そういう風に考えないと、唯物史観を社会の中できちんと使って、共産主義でも何でも
やったりすることはできないわけです。全部を社会的諸関係に還元してしまって内面が
空白であると、人と一緒に何かすれば人と交流すればそれでいいんだというそういう考
えでは、世の中とてもやっていけないんじゃないかと思うのです。

 歴史的には土地所有の発展に伴い、内面という文化が育ってきたと。またその所有か
ら発展した内面というのは祈りであったと。

 同時に、自分の肉体がいつも危機にさらされたり、あるいは仲間が死んだり悲しいと
きにも、求められるのは宗教だと思った。そこから考えてみると、共産主義が、宗教と、
土地所有の根本である農業というものを統御できなかったことには、問題があるんじゃ
ないかと思いました。

 ずっとこの三部作を書いていて、いんちきな言説をたたくというのも当面のテーマだ
ったんですけども、最大敵は柄谷行人だったんですよ。ところがずっと柄谷を批判し続
けていて、安藤礼二という人と対談したら、柄谷行人の手つきが実は『ドイツ・イデオ
ロギー』そっくりだと言われた。私は実は大学で『ドイツ・イデオロギー』を1年間勉
強して読んでいたのに、読んでいたことすら忘れてたんですよ。それはすごいショック
なことがあったからで、ます『ドイツ・イデオロギー』が内面がないっていうところか
ら発しているから、また大変鈍感な書き方をしてある。そういう点からすごく傷つくこ
とが多くて、レジュメもうまくまとめられなくて笑われたりした。なおかつその当時
『ドイツ・イデオロギー』的な私の肉体しか見ない男性から追いかけまわされるという、
大変嫌な経験をした。それがトラウマになって『ドイツ・イデオロギー』を読んでいた
ことを忘れていた。だけどそれをもう1回読み返したら、どうみてもおかしい。どうし
てかっていうと、その前にフォイエルバッハの『キリスト教の本質』を私は読んだから
です。それで人間に内面があり、祈りがあると考えられるようになっていた。

 石塚正英さんの『白雪姫とフェティッシュ信仰』というフェティッシュ信仰の本は
もっと前に読んでいたんですけども、人はもし土地を持っていなくても、1個の石を
握ってお祈りをするんですよ。1個の石を所有するときにお祈りができるんだったら、
内面が空白であるはずはないし、物質と精神の二項対立だけでは乱暴すぎると。

 だけどこの世には内面の空白な人がいて、そして共同作業の中でしか生きられなくて、
その人たちは自分たちの主語、「私」とか「俺」を使ってもおかしな使い方をする。
その言葉は一番劣化した時は、マスコミの「なぜ人を殺してはいけないか」というよう
な言葉になっている。誰が誰を殺すのかという問いを忘れているんですよね。人を殺す
ということは、すごく現実と接したことだから、マスコミが誤用して使う劣化哲学的な
問いだけでは答えのしようがないんですよ。だけどそれを上から押さえつけるように、
それこそ社会的な諸関係の産物として、問いを発してしまう。そういう程度の低い、
主体なき言語のおかけで、議論は乱れて、学問は駄目になって、まさに今必要とされる
はずの文学もどんどん場所を奪われている。で、―――。

 そこにやっと気づいたとき三部作が完成するんですけども、だけどなにしろ大変だっ
たんですよ。もう締め切りがそこに迫っているという時に、田中和生に対する批判をも
し書かなかったら、このまま私は知らん顔することはできないと思ったんですよ。
ネットの読者は待っている。そして笙野がどうするか見ている。

 田中さんは三部作の「おんたこ」とは男の含意だと言った。でも、例えば「おんた
こ」に迫害されている「みたこ」の教祖である野之百合子は男じゃないですか。心は女
だけど。そして、「おんたこ」側にも、それも右大臣左大臣と言われるポストにさえ女
はいる。それなのにどうして「おんたこ」は男の含意だって、こんな単純に言えるのか。
そして笙野頼子は女が正しく男が敵だという風に単純化してしかものを書いていないと
いうわけですよ。だけど単純化したのは田中さんの方で、私は錯綜したことを書いてい
る。その錯綜をまとめきれなくて、嘘を書いているんですね。人の登場人物の性別を間
違えた上で、笙野の登場人物の性別はなっとらんと言ってくる。続きを書かせまいとし
てね。それを私は2次元化だといって批判したんですよね。その批判が済んでから、
1日30枚づつ原稿を書いて、次の月に300枚載せて完成しました。

●遊郭を書くことへの罪悪感

―――三部作の中で遊郭の話に触れておられるところが印象に残りました。
「書くのが怖い」「今までは書かなかった」とありますが、この部分についてお話しください。

 それは私ごときが想像もつかぬハードな世界だから。申し訳ないから。文献を見ると
ね、昔のことでしょ。だから、本当に食べずに働かされている。おいしいものは食べさ
せない。すごい酸っぱくってまずい漬物と、冷ご飯だけとか。どうしてかっていうと、
飢えた状態にさせておいて、客の機嫌を取らせて、おいしいものを食べさせてくれって
言わせる。セックス産業のところでそうするわけだから、その見返りはやっぱり性的な
ものであるわけじゃないですか。すごいきつい状態なわけでしょ。それだけじゃなくて
年季というものがあって、借金はもう返せないくらいに利子が膨らんでいく。それから
衣装代やなんかも全部差っ引かれるとか、とにかく遊郭というのは恐ろしいんだなあと。

 赤線は昭和30年代まであって、そのころだと辞めてもいろいろ言われる人はいたし、
性病とか妊娠の問題はあるだろうし、もう言うに言われぬくらいいっぱい嫌なことがあったと思う。

 伊勢の古市遊郭というのは、遊郭として超一流のところで、公家文化があって、茶の
湯とか生け花とか将棋のできる教養あるきれいな女の人しかいないところだと昔は言わ
れていた。教養あるきれいな女性ということは、本来なら多くは高レベルの男前と付き
合うじゃないですか。そういう感じの女性が誰の相手をするかというと、観光客が集団
で来るのよ。もし十代の男の子たちが童貞できたら、その相手をしなきゃいけないと郷
土史の本に害いてある。その次の日に、手紙の上を赤く染めたお礼状を書いて、それを
子供に送るわけ。

 なおかつ私はぬくぬくと育ってるわけですよ。しかもその人たちが昔いた土地の上に。
そこは悲しいことがいっぱいあった。人身売買で遊女いじめたからって、男の子が代々
夭折するっていう家があって、そこの家はもう絶えちゃってるんだけど、黒髪を祀った
お稲荷様とか怖いものがある。

 だから、私なんかがこういうことを書いていいのかと。死んだ人というのは、やっぱ
り想像力をかきたてるところがあるから。だから怖くてしょうがない。心中した人の息
の音が朝まで聞こえたという話が残ってるところもあるしね。

 だけども、50歳過ぎて、自分は子どもを産まなかったし、それからやっぱりすごく、
ブスだったから(笑)。つまりここまでもうプスで、子どももいないから許してねとい
う感じで書き始めたの。だってこの人たちはみんなきれいで教養があるのに、好きな人
がいても毎日見るのもいやな男性の相手して。肺病もあるし。あとやっぱり、ブスか美
人かですごい差別されただろうと思うし。古市は舞台の上で踊って選んでもらうって。
古い人の話を聞いて、やはり怖かったですよ。

―――怖さを覚える経験をどのように書きましたか。

 怖さというより、後ろめたさかなあ。罪悪感。「ごめんなさい」って気持ちがあった。
なんでも書けばいいんだけど。例えばかわいそうな犬が死んでいくところを淡々と描写
していくやつっているじゃない。私はよくも書くなっていうのが先に立っちゃうから。
フィクションの中に取り入れるんだから、構わないとは思うんだけど、思いながら書い
てる私の体は古市の方ヘ引っ張られてるって感じ。

平気で遊郭の句とか作る女の学者を見てて、じゃあこいつを夜中に遊郭の四つ辻へ立た
せてやったら引きづり込まれるぞ、と思うわけ。そういうことを思ってて、僧んでたわ
けだから、ものすごく後ろめたい。だからといってその人とは違うぞ、と絶対思ってる。
むかつく。

―――でも今回はそのことを書かなくてはいけなかったということですか。

 そうですね。この、にっほん国がどういう国かというと、国のど真ん中にロリコンが
ある国だから。人間同士は内面がないことにされて、例えば体を触れあうとか、身分差
別をしあうとか、人間同士の諸関係の中にしか何もないというところで。

 でももし少女を好きでも、フォイエルバッハ的な少女だったら、心の中にひとりの少
女を想えばいいわけですよ。例えば幼稚園で一目見た少女を好きになったら、もうしわ
けないからもうその少女には一生近づかないで、写真とかも持たないで、少女の絵を自
分で描いて泣きながら一生を過ごせばいい。

 でもそういうことじゃない。要するに体を触れて、性交しないといけない社会ですよね。
70年代なんかの、抑圧的でいやらしい世界ですよね。反権力ブリッコの。

 そういう中で、一番よりよく相手に触れ得るというか、相手に到達し得る手段は何か
というというと、全く穢れてないものを、徹底的に穢すことなんだという地獄ですよ。
相手に意志も何もないのに、自分が流通し行きわたることですね、貨幣のように。
「おんなこ」をそういう風に考えて、遊郭を書きました。

●錯綜する性 ワンコードの限界

―――育った家庭環境の影響もありますか。「女じゃなく男として育てられた」との
意識があったと書かれているところがありましたが。

 私の場合、弟いるのにうちの長男と言われていて、ショートパンツとかはかされてい
た。そのころは女の子はそんなものをはいたりしないから、いぱりんぼだっていじめら
れたり。全部の男子に暴力で勝たなければいけない、なおかつお料理博士でないといけ
ないとか、母は言うのね。母は実際、東芝の研究員をやって、いじめる男をカサで殴っ
たり、お料理もちゃんとできるという人たった。でも研究員だったころ、『タイムスリ
ップコンビナート』に書いたんだけど、生成した鉱物の結晶を嫌がらせで3回捨てられ
て、抗議したら現場の職人さんに「男と同じ給料取りやがって」って言われて辞めた人。
だからトラウマが残ってて、娘に対して過大な幻想や期待を抱くことで埋め合わせして
いた。上品な少女服も一方で着せられた。私は「男でもあり女でもなきゃいけない」と
いう感じだった。だからふざけて弟の制服着ておもてに出てみたりとか、そんなことは
してた。高校でもスカートはくのがいやで、途中からするずるなし崩しにズボンはいて
学校通ったり。でも、そういう女の子はよくいるよね。

―――そういったものが小説の出発点なんですか。

 というよりも、出発は「祈り」じゃないだろうか。辛さのなかでの。

 男の人が私を攻撃するときにフェミニストって言ってくると、そうだよフェミニスト
だよぱーかって言うけど。

 でも、本当にワンコード・フェミで評論を書くような女の人からは、私はしょっちゅ
う叩かれてます。ネットを見ると、女の国文学者が4人くらい並んで、人のことを叩き
まくってるんだけど、みなさん単細胞で。フェミに限らなくてもワンコード非常識は
うんざりですよ。

 例えばさっき言った安藤礼二さんだったら、民俗学もわかる、SFもわかるし、哲学
もわかるし、フランス文学もわかる。フェミニズムって一言も言わなくても、私のいく
つかの面を書ける。まあ修諭書いてる女性で、ていねいに細部を取った上ならフェミだ
けでやるのも参考にはなりますね。

 しかし、田中和生みたいなものからフェミニズムで切られる覚えはないと思っていま
す。というか田中の言ってるフェミニズムって、フェミニズムじゃないから。特定編集
者の都合にあわせた仮想敵ですよ。彼は女が正義で男が悪という図式が現代フェミニズ
ムの図式だって言ってるけど、無知にもほどがある。そんなフェミニズムがあるのなら、
何フェミなのかちょっと特定してください(笑)。

―――単純に小さいころの体験をフェミニズムにつなげようということではなくて、
やはり小さいころのできごととか体験は小説を書くのに大きな要素ではないのですか。

 そうですそうです。フェミは大切だけど、危険な切り□です。私は子どものころ、
もてたからというんじゃなくて、男の子とばかり遊んでいた。私は自転車にも乗らない
のに、男の子って仲間だと思ってるとすごく仲良くする。一緒にいるってだけで、必ず
かぱうってところがある。鼓笛隊なんかやってると、いいアコーディオンを取りたいと
言う前に、男子がわーって行って、私に一番コードの多いアコーディオンを持ってきて、
ほらひいてって言って渡してくれる。それだと女王様みたいだけどそうじゃなくて、
男同士の関係なのだと思った。

 『太陽の巫女』にも書いたけど、昔の男の子というのは生意気な女の子やっつけよう、
あいつをさらって段ボール箱の中に入れてやれとか、実際にはしなくても言うわけ。
そうすると私は一緒に共謀してて、私は女なんだけど、自分が女なのを忘れるしかない。
結局悪いことはしないんだけど。でもなんかだからそういう意味では、男の子付き合い
にいまだに屈折がある。

 だからフェミニストとも違う体感がある、というのはあるんですよ。『水晶内制度』
なんかで女の子同士の付き合いを書いてるじゃないですか。でも実はそれは男の変化し
た女で、ホモソーシャルの楽しさも悪も描いている。その上に大人になってから知った
女性同士のよい関係も悪い関係も重ねて書いてる。私は子どものころは安心な男の子同
士付き合いの中にいた。それから裏切られて、「女の国」に行った。そのことの良い面
も悪い面も全部溶かし込んで書いてる。『水晶内制度』を読んでフェミニズムだけだと
か、女だけについて書いてるとか言う人は愚かだと思います。そのことに関して私は座
談会のときに、フェミニストに対して怒ったことがあるくらい。だから一筋縄ではい
かない。小説で「男」と書いてまるまる「男」だったことは少ないです。微妙に
つながってはいるんだけどね。

―――そういう工夫は「フェミニズム」の言葉をひとつを取ってもなかなか思った通り
伝わらないというのがあって、それをうまく伝えるためにいろんな書き方をされるんですか。

 はい、ともかくワンコードで切ったってしょうがないんです。全身を使って書いて
いる。どこが出てるかと、読み手がどこを見るかは重要ですね。与那覇恵子さんでも、
私を書くときは記号論で書いたり、語りのリズムで書いたり、いろんな工夫をしている。

 性別に関していえば、『萌神分魂譜』という本があって、その中に自分の心の中に少
年をひとり持っていて、その少年とずっと付き合っていた女の人のことが出てくる。最
初その少年というのは2次的コンプレックス的なもので、主人公はある漫画の登場人物
を好きになって、しかしどうもマンガではしっくりなじまなくて、それでだんだん忘れ
てしまう。

 だけど、それから20年ほども経って、モデルだった男の人とそれと知らず会ってしま
う。これは私の身に本当に起こったことでもあります。その人はもう中年になってるん
だけど、やっばりきれいで、素敵な人だった。そして私の読者だった。リスペクトを浴
びつつ、なぜかショックでした。その時はどうしてショックかわからなかったけど、
あとからそのモデルだったとわかった。

 私の心の中に少年みたいな存在があって、ずっと向かい合っている。いつでもそれは
いろんなものに宿る。それがフォイエルバッハのいう感情の本質みたいなもので、それ
は祈りだけど、宗教以前の何か親しい、愛しいものなんです。じゃあその愛しいものの
本質は、原型は何かというと、やっぱり子どものころに男の子付き合いしてたから、男
子同性愛的なものかもしれないし、でも成長してだんだん女性になってくるから、ある
いは異性的な異性愛かも知れない。その辺がいまだに未分化なのね。外の現実的な性に
全然関心が向かなくて、肉体的な接触を全然しないで生きている。腐女子でもないし。
やおいは批判的な目で見てるときもあるんだけど、私の読者には腐女子もいる。
性についていうと、50過ぎても私は性的に未分化なところがあるから、まだわからない
ところが多い。

おはよう、水晶-おやすみ、水晶 Book おはよう、水晶-おやすみ、水晶

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笙野頼子三冠小説集 (河出文庫) Book 笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)

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母の発達 (河出文庫―文芸コレクション) Book 母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)

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金毘羅 Book 金毘羅

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生命保険もネット企業が出てきたようだ

生命保険もネット企業が現れて、価格競争が起きそうだね
ライフネット生命の出口治明社長の本が出てるね
勉強しなければ

生命保険はだれのものか―消費者が知るべきこと、業界が正すべきこと Book 生命保険はだれのものか―消費者が知るべきこと、業界が正すべきこと

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生命保険入門 Book 生命保険入門

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2008年12月13日 (土)

このミステリーがすごい!

国内

1 ゴールデンスラバー 伊坂幸太郎 新潮社
2 ジョーカー・ゲーム 柳広司 角川書店
3 完全恋愛 牧薩次 マガジンハウス
4 告白 湊かなえ 双葉社
5 新世界より(上下) 貴志祐介 講談社
6 カラスの指輪 道尾秀介 講談社
7 黒百合 多島斗志之 東京創元社
8 山魔の如き嗤うもの 三津田信三 原書房
9 ディスコ探偵水曜日(上下) 舞城王太郎 新潮社
10 ラットマン 道尾秀介 光文社

国外

1位 チャイルド44
2位 フロスト気質
3位 運命の日
4位 20世紀の幽霊たち
5位 スリーピング・・ドール
6位 タンゴステップ
7位 冬そして夜
8位 最高の銀行強盗のための47ヶ条
9位 荒野のホームズ
10位 ウォリス家の殺人

こういうランキングは多くの人の投票で成立していて、討論を経ないで決定されるところが、民主主義社会の代議士選挙ににていますね。

必ずしもベストの作品が上位に来るわけでもないところとかね。

東野圭吾もトップとって、直木賞もとって上がってしまうと、もう全然入らなくなるあたり、作品の質以外の話題性で上位に来て、その後、作品は売れてますが、評価はそれほど高くないよね。

「ミステリー」という枠組みで投票するだけでは、弱くなってきてますね。明らかに。

「このエンターテイメント小説がすごい」という投票ならまた結果は大きく違ってくるでしょうね。

ゴールデンスランバー Book ゴールデンスランバー

著者:伊坂 幸太郎
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陽気なギャングの日常と襲撃 (ノン・ノベル) Book 陽気なギャングの日常と襲撃 (ノン・ノベル)

著者:伊坂 幸太郎
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チルドレン (講談社文庫) Book チルドレン (講談社文庫)

著者:伊坂 幸太郎
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グラスホッパー (角川文庫) Book グラスホッパー (角川文庫)

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アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫) Book アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

著者:伊坂 幸太郎
販売元:東京創元社
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陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫) Book 陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

著者:伊坂 幸太郎
販売元:祥伝社
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魔王 (講談社文庫) Book 魔王 (講談社文庫)

著者:伊坂 幸太郎
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ラッシュライフ (新潮文庫) Book ラッシュライフ (新潮文庫)

著者:伊坂 幸太郎
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モダンタイムス (Morning NOVELS) Book モダンタイムス (Morning NOVELS)

著者:伊坂 幸太郎
販売元:講談社
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2008年12月11日 (木)

千本倖生の名前を良く見るようになった

挑戦する経営―千本倖生の起業哲学 Book 挑戦する経営―千本倖生の起業哲学

著者:千本 倖生
販売元:経済界
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「がっちりマンデー」にイー・モバイル会長の千本倖生が出ていて、そのベンチャー人生を語っていた。「挑戦する経営」という本を出していて、その紹介をしていたのですが、アマゾン2位にまで一気に上がって、今も上位にいますが、出版社は増刷をあわててやってるところじゃないでしょうか。
しかし、最近この本を、「週刊新潮」でも書評してましたし、「週刊朝日」でも今日見ました。ものすごく部数が少なそうなのに、突然書評がこれだけ出るのはなぜなのか?
テレビにも出ましたし、露出を増やすことにしたのでしょうか。
千本倖生の人生が書かれていますが。かっこいいですね。
経済人には珍しい教養人でもある感じだし、
息子は考古学者
奈良高校以来の親友が歴史学者の千田稔
下宿先で一緒に生活したのが五百籏頭真(防衛大学校長)だそうだ。
工学博士で凄いね。

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